『サクリファイス』について (西宮) ヴラディミール・チェルトコフ
http://enfants-tchernobyl-belarus.org/HTML/Wladimir-Japon/a-propos-sacrifice-jp.htmlこの映画の真の作者は、私ではないことを申し上げておかねばなりません。
本当の作者は、チェルノブイリについての私の三本の映画を編集したプロの編集者エマヌエ ラ・アンドレオリです。エマヌエラは、この映画によって、ヨーロッパを救った英雄たちの尊厳 に対して敬意を表しておきたかったのです。
1990年、1998年、2001年と11年間に及ぶ期間の間に、チェルノブイリの五人のリクビダートル (事故収束作業員)たちと三度出会った際に私たちが収録した数十時間に及ぶ撮影したフィルム のラッシュを元に構想し、この映画を製作したのです。
複数の9つの映画祭に選ばれ、四回賞をもらい、2004年にはフランスのウーラン市の科学映画 祭で最優秀賞を受賞しました。
審査委員会は、短い批評で、その選択理由を説明しました。
ジャン=リュック・ゴダールは、みずからの映画理論で、最も真面目な方法について問いかけ ました。『映画とは何でしょうか。彼はそれに応えて、<何でもない>と。映画は何を欲してい るのかと問われ、<すべてである>、と応えました。最後に、映画は何が出来るのか、との問い に、<何かだ>、と応えています。
エマヌエラ・アンドレオリとヴラディーミル・チェルトコフは、『サクリフィス』という驚嘆 すべき映画を作りました。この映画は、一度に世界の現実と映画の真実へと私たちを駆立てま す。
むろん、アンドレイ・タルコフスキーへのオマージュとなっている映画(タルコフスキーの最 後の作品は『サクリファイス』と題されていた)は、畏怖すべき到来ですが、とりわけ、 17年間 取材して、証人たちの赤裸々な言葉を聞き届けさせるために作られた映画でもあり、その証人た ちの病気で蝕まれた身体は、現実の中で証拠を与えているようには決して見えないのです。たし かに、チェルノブイリの原発惨事の証言として、当たり前の体と無名の人たちの崇高化以上に、 勝るものはあるでしょうか 』(引用終わり)
私は医者でも物理学者でもなく、ジャーナリストなので、リクビダートルの生の肉声の証言に ついて、健康や彼らの身体の放射能汚染について、つまり現実の証拠について厳密に語る資格を 持っていません。
2005年11月12日に『サクリフィス』は、PSR / IPPNW主催、スイスはベルヌ大学医学部後援で 催された『リクビダートルの健康、チェルノブイリ原発の爆発の 20年後』と題する国際科学シン ポジウムで、確証として紹介されました。スイス、ロシア、ウクライナ、カナダ、ベラルーシの医 者、物理学者13人のパネラーが参加しました。
日本の内科医で兵庫医科大学で遺伝学の助教授、振津かつみさんはベルヌ会議に参加していま した。7年後に福島事故が発生しました。エマヌエラ・アンドレオリが彼女にDVDを渡し、日本 に持ち帰った振津さんが藤野聡さんに字幕の翻訳・制作を依頼し、振津さんが監修して、この日 本語版が出来たのです。
シンポジウムのカタログには、このように書かれています。
「<完結編の講座>は、チェルノブイリのリクビダートル(事故収束作業員) 80万人のを襲っ た人工放射線の健康影響について割り当てられます。彼らは基本的には若い成人(平均年齢 33 歳)で、招集をうけ、チェルノブイリ原発の原子炉周辺の、非常に高度に汚染された場所を除染 しなければなりませんでした。彼らの半分は軍人で、ソビエト連邦のあらゆる共和国からの出身 者でした。他の人たちは、技術者たちです。市民、炭坑夫、建設労働者、パイロット、運転手、 健康な若い男性、女性たちです。
最初の数週間は、リクビダートルへの外部ひばくが支配的でした。
非常に早く、内部ひばくが放射性ヨウ素やセシウム、ストロンチウムなどを吸い込むことに よって、リクビダートルは増大する内部ひばくを受けることになります。線量計は、増々難しい 役割を負う羽目になります。他方、当初の線量計は、これほどの高い線量を計るのに不向きでし た。
2005年のプレス・リリースのなかで、在パリ・ウクライナ大使館は、汚染された住民(ウクラ イナの人口は264万6106人の医療統計)は、年を追うごとに、病人の比率は増え続け、94%のリク ビダートルが病気である。彼らのうちの多くが既に死亡している、と表明しています。 引用します。 「わたしどもは、これらの病気の幾つかを研究しています。神経精神科、耳鼻喉頭科、眼科、心 臓科、腫瘍科、そして遺伝学そして生理病理学の専門家は、彼らの観察結果を発表するでしょ う。」
<引用終わり> バーゼル大学医学部名誉教授ミシェル・フェルネ医師は、撮影されたドキュメントの医学的様
相について、コメントしました。 彼はシンポジウムで、この映画を試写することは、病気の問題に言及する以前に重要なアプ
ローチだと自説を述べました。すなわち、映画の映像とリクビダートルの証言は、論争の数多く の課題と主題に解答を与える、というのです。
彼は以下のようにメモしました。引用します。
「各リクビダートルの受けた線量は、作業を調整している上司からどのような任務をまかされ たのかによる。政府当局の通達は、壊れた原子炉の周辺で、許しがたい条件の下で作業したこれ らの兵隊たちが受けた線量を出来るだけ過小評価するように強要した。人体の臓器に負荷を与え る放射能は、外部ひばくと内部ひばくによってもたらされ る。登記簿に記された過小評価された 線量は、外部被爆しか対象にしてない。
放射線核種の汚染度の高いチリを吸い込んだことによる内部ひばくを考慮していない専門家た ちの報告書は、チェルノブイリの犠牲者のリストから、こうした疾病や死を排除している。
映画は、志願したといわれるこうしたリクビダートルがどのように働き、放射能ガスや燃焼ウ ラン派生物の放射性核種やプルトニウムの微粒子を含むチリのを吸い込む危険性がどのくらい あったのかを説明している。
内部ひばくのうち、最も重大なのは、莫大なエネルギーを持った粒子、アルファ線による線量 で、周辺の細胞眞で損害を与え、とりわけ遺伝子を運ぶ組織に傷を付ける。そこから、ガンや遺 伝的病気や子どもの奇形が発生する。
放射性核種の密度の高いチリを吸引すること、とりわけ、難病を発生させるナノ粒子を付着さ せる放出されたウラニウムの煙や目に見えないチリの吸引だ。
映画は、彼らの作業が、様々な仕事の中でも、放射性の土を掻きとり、大きな穴に埋めるため に、スコップでトラックに積み上げることだった。
肺に付着するものであれ、他の異なった諸臓器を循環するものであれ,異なった放射性核種を 避けがたく吸引することは、周辺の細胞を数十年の単位で被ばくさせ、破損させる。 リクビダートルは、加速する老化現象を記述する。この症状 -早熟の老化- は、昔は、慢性のひ ばく効果として知られていたが、チェルノブイリ後、放射線による病気のリストから外された。
主治医は、慢性ひばくによるこれらの疾病について知っている様子がない。状況が悪化すると き、診療を依頼された先生たちは、これらの見知らぬ病気に力が及ばず、無力になっているが、 ベラルーシといえば、医者の養成レベルが高いことで知られているのだ。
例えば、西欧の専門家たちが甲状腺ガンの伝播の事実を認めるまで、5年から8年かかっている のに、この国ではその事実をすぐに明らかにしたのだ。
最終的に、この映画は、科学的な追跡調査が行われていないことを明らかにしている。重病で 見捨てられ、国家から、そして統計から忘れられたこれらの犠牲者たちに対して、自治体は無関 心でいることを示している。
ではこれから、異なった分野のふたりのリクビダートルをご紹介しましょう。ベルヌ・シンポ ジウムのパネラーの一人、ヴァシーリ・ネステレンコというリクビダートルです。
彼は例外的な科学者で、彼なしにはチェルノブイリの真実は知ることができなかったでしょ う。そしてそのことについて、私たちはここで語ることができます。
信じられないことですが、彼なしには、私たちは何も知りえないのです。そうでなければ、 チェルノブイリに関する嘘を語るための正当な証拠がないので、私は、今日、皆さんの前でお話 しすることはなかったでしょう。
ヴァシーリ・ネステレンコは、三つの異なった次元で、リクビダートルでした。 第一段階:原子炉の爆発後の5日目、1986年5月1日の朝、チェルノブイリの二回の熱爆発より もっと破壊的な原子爆発が起こらないようにするために、火災を消し、液体窒素を炉心に注ぎ込 むための方法を見つけようと、ヘリコプターで原子炉の上を飛んだのです。 リスクを自覚しなが ら、そのリスクを知らずにいた他のリクビダートルとともに、彼は非常に強い線量の場に自分の 身体を曝しました。 彼は、リクビダートルの被ばくを抑えるために原子炉の放出する放射能を計りながら、自らの 健康を壊すこともいとわなかったのです。病弱になりながらも、自分の同胞と彼らの子どもたち を守るために、自分に残された体力を調整することもしませんでした。
第二段階:才能のある数学者、物理学者で、冷戦時代のソビエト連邦には欠かさざる人物で あったネステレンコは、権力の頂点まで、それを行使することなく、垂直に昇り詰めました。状 況の深刻さをすぐ理解し、事故のすぐ直後から、無気力で、惨事が拡散していることを認めよう としないソ連当局とすぐさま衝突し始めました。
1986年から1990年の4年間の間、汚染地帯の放射線についてほとんど日毎に無数の科学的報告 とすぐ取るべき措置を当局側に送り続けました。それらの複写を持っている資料は 1000部に及び ます。
原子炉は4月26日土曜日に爆発しました。そのことを彼には隠していたのです。彼は 27日日曜に ミンスクの彼の研究所の所用をかたずけるためにモスクワへ行き、28日月曜、クレムリンに到着 して初めて事故が起こったことを知りました。
ブラーギンで、またモージル、コイニキでも放射能を測定しました。いたるところで、汚染は 自然の放射能のレベルの数千倍に達していたのです。つまり、それは、原発から 100キロ周辺地区 の住民を避難させねばならないことを意味しました。そして彼はそれを要求したのです。
彼は素朴な民衆に忠実で、自分自身もその出身なので、自分のキャリアと安全を投げ打ち、彼 らを守るために、無知と嘘を除去しようと必死に努力したのです。
第三段階:ベラルーシ科学アカデミー所属の原子力エネルギー研究所を10年間、主導して来た のでしたが、彼について来た協力者たちのチームとともに、子どもたちの身体組織の中に入り込 んだ核の毒を除去するために、独立放射線防護研究所『ベルラド』を立ち上げます。
この人の職業的、人間的経歴はどのようなものだったのでしょうか。
1977年から1987年まで、ヴァシーリ・ネステレンコは、自分も会員だったベラルーシ科学アカ デミーの原子力研究所の所長でした。
核物理学分野における300以上の科学特許の所有者で、ソ連邦時代には、軍事的理由で禁止に なっていた都市に入る権利さえ持っていました。彼はミニサイズの原子炉の発明者、建設者で、 それはヘリコプターで移動可能であり、米国の原子力潜水艦の可動性に対抗するために、移動式 の大陸間弾道弾を発射させることができるものでした。
ヴァシーリ・ネステレンコは放射能がなんであるかを知っていましたし、子どもが大好きでし た。彼は、どのように、子どもたちが数千の単位で避難させられるのかを見ていました。ゴメリ の駅で、子どもたちが母親たちから引き裂かれ、出発する列車の車両に押し込まれる様子を見て いたのです。
彼は、ドイツ国防軍(ヴェアマハト)が、赤軍の空爆の下で、自分の村から撤退するにあたっ て、子どもと女たちを戦車の前に集まらせ、この人間の盾の後ろで願わくば、自己防御できるで あろうとして行なったことについて、私に話してくれました。
それは、長い旅の後、泣き疲れた同じ子どもたちがミンスクの自分の研究所に到着するのを見 たような気がしたのです。彼らを押し込んだのはナチスではなかったのです。
彼らの身体から発散する放射能を計り始めました。彼らの服に近づくと、線量計の針が最高値 の末端で動かなくなってしまったのを見て、彼は、科学者の自分の権能を、このような惨事を引 き起こすテクノロジーのために二度と使うまいと決心したのです。彼は、まさにこのとき、犠牲 者を助けることはあっても、この科学に二度と関わるまいと決心したのです。
2004年、インタヴューの中で、ソ連は、もし1986年5月8日までに火災を消化できなければ、 ヨーロッパを生活不可能な土地にしてしまうかもしれない原子爆発が起こるのを恐れていたと断 言しました。
フランスの科学者たちは、そんなことは不可能だと明言して、この仮説に疑問を投げました。 私は、ネステレンコに、ソ連の科学者たちの心配を科学的に補強してほしいと頼みました。彼 は2005年1月17日に返事をくれました。
私はここで、彼の長い返事の断片を引用してみます。(これは私の本『チェルノブイリノ犯 罪』(緑風出版2015)の第一部三章に入っています)
<私は1986年5月1日に、私がミンスクのKGB本部に召集され、そこで、チェルノブイリにいた レガソフ(チェルノブイリの事故対策委員会の最高責任者)と高周波による電話交信で会談した のをよく覚えている。
彼は、壊れた原子炉の中に液体窒素を挿入する案を語った。すなわち、液体窒素が蒸発する過 程で、空気(酸素)を移動させることによって、黒煙の燃焼を止めることができるかもしれな い、と想定したのだ。あとは、私に現場の状況を判断してもらうために、私をヘリコプターで迎 えに行くと、言った。
事故後、原子炉が燃えているとき(それは 10日に及んだが)、100人以上の専門家が現地を訪 れた。全てのものが、何かを研究し、事故を収束させるための様々なシナリオを提案した。
ヘリコプターで原子炉上空を飛んでいる間、私たちは液体窒素を運んで来るトラックの搬入経 路を探した。それは液体窒素を壊された原子炉のなかに運び込み、空気を移動させ、燃えている 黒鉛を消すためだ。
192トンのウラニウム(ウラン235の1,8%濃縮したもの)を内包する原子炉の動いている1700の 経路と、厚さ1メートルのコンクリート台の上に原子炉全部が載っている。原子炉の下は、核廃棄 物を集めるための堅固なセメントの部屋がしつらえてある。作業員は、巡回ポンプで原子炉の水 を吸引し続けているので、水はもちろんこの鉄骨の入った地下室に漏れて入り込むだろう。
大きなリスクが顕在化した。もし溶融したマグマが原子炉の下のセメントの台座を貫通し、地 下のセメントの部屋に入り込むと、原子爆発の好条件が出来る。
1986年4月28-29日に、シュミレーションの試算によると、ウランと黒鉛、そして水の混合 物1400キログラムが融点可能な塊と化し、それが3-5メガトン(広島原爆の50-80倍)級の破壊力 を持つ原子爆発へと導くかもしれない。
このような威力の爆発は、ミンスクの町全体を包み込む、300-320kmの範囲の空間の住民たち の膨大な放射線障害を引き起こすかもしれない。そしてヨーロッパすべてが正常な生活が不可能 な放射能汚染によって犠牲になるだろう。
私には、ある確かな情報で知っていることが一つある。もし、このような必要性が生まれた場 合、住民の避難のためにミンスク、ゴメリ、モギレフや他の都市に集められた列車車両は、チェ ルノブイリ原発から 300-350キロの内側に入るのだ。
1986年5月8-9日に爆発が起こるのではないかと危惧された。それゆえ、原子炉で燃えている黒 鉛をこの期限より前に消化するためのあらゆる手段が講じられた。
モスクワとドンバス地方の周辺の数万人の炭坑夫が緊急に召集された。彼らが原子炉の下に坑 道を掘り、原子炉のセメント台座を冷すために冷却用蛇腺を設置し、この台座にいかなるヒビが 生じる可能性をも排除しなければならなかった。
鉱夫たちは、セメント台座を救うために、極悪の条件(高温、高い放射線)で作業せざるを得 なかった。滅私奉公の精神で、これらの男たちが起こりうる核爆発を予期して作業したこと、こ の行為の価値を低く見積もることは不可能だ。これらの若い人々のほとんどが障害者となり、彼 らの多くが30-40歳の若さで、亡くなったのだ。
私の考えでは、私たちはチェルノブイリにおける核爆発を危機一髪で防いだのです。もしそれ が起こったならば、ヨーロッパは住めなくなったでしょう。ヨーロッパの民衆は、私の考えで は、命を賭して、極度に重要な原子の悲劇の大陸を救った数十万人のリクビダートルに絶えない 感謝の意を表明すべきであろうと思います。
もう一人の非合法のリクビダートルは、ユーリ・バンダジェフスキーです。
1999年9月、事態の幸運な結びつきによって、私の映画を出品したある映画祭で、スヴェトラー ナ・アレクシェーヴィッチと初めて出会ったおかげで、解剖病理学者ユーリ・バンダジェフス キーがルーカチェンコ大統領の独房に7月以来、入れられてひどい目に遭っていることを知りまし た。二ヶ月がすぎ、彼のことを西洋では誰も知りませんでした。
私が前年の5月に知り合ったネステレンコから、この奇特な研究者が汚染地で進行している事 実を看破し、公式の教条を覆すデータを収集していると賞賛を込めて私に語ったのでした。
心臓科医で小児科医の連れ合いガリーナとともに、心臓の形態や機能に現れる病変の頻度と程 度が、体内に蓄積する放射性セシウムの量に比例して増大することを発見したのです。
彼はこう説明していました。これは子どもや若者、そして成人における心臓トラブルであり、 心筋の劣化を伴う。このことによって、あらゆる年齢で、突然死が発生するようになると。
バンダジェフスキーとその研究チームは、「免疫系と同じレベルで心臓、肝臓、腎臓、内分泌 系でも、相互依存的に病状が進行する」ことを報告していました。
こうした病変はどれも同じ病理経過に起因している。彼らはそれを『体内に取り込まれた半減
期の長い放射性核種によって引き起こされる病理現象』と呼びました。 こうした病理が明らかにされたのは、ゴメリ医科大学がその設備を駆使して、子どもと成人を
対象に実施した精密検査のおかげです。 臨床、動物実験、そして解剖という三通りの方向性から 25人の医学教授が9年間に渡ってこの
テーマを研究しました。ゴメリ医科大学は教員が 200名、嘱託職員300名、そして学生が 1500名、 いました。
今、私は過去形で語らざるをえません。というのも、歴史的に重要な初めての核惨事によって 汚染された地域で、唯一の研究道具だった施設は、今では全て破壊されたからです。
スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチと私が話したとき、そのことを誰も知りませんでし た。厳密な情報が欲しいときには、私はヴァシーリ・ネステレンコに電話をしました。
私は初めのうち、電話が盗聴されるのを恐れて、ネステレンコに質問するときは、言葉をオブ ラートに包んだり,ほのめかしを使ったりしました。
自国でアカデミー会員で尊重される科学者だったことは、彼の精神的強固さも相まって、彼が 自由に発言し、ベラルーシ厚生省の犯罪的政策をオープンに批判することができました。ベラ ルーシ厚生省は、ウイーンのIAEAと直接繋がっており、自国の政府に情報を隠していたのです。 ネステレンコは、国際原子力ロビーの壁に、隙間を空けたのです。そしてそこから真実がこぼれ 出たのです。
私は、彼なしには、チェルノブイリの真実は得ることができなかったろうと断言します。私た ちは、彼なしには、バンダジェフスキーによって研究され発見された核産業によって引き起こさ れた犠牲になった住民の重大な健康における損害の科学的証拠は、得られなかったでしょう。
ネステレンコは、世界が小児科医、心臓科医のガリーナ・バンダジェフスカヤに背を向けたと き、二人の娘とともに、一人で残された彼女を支えたのでした。
2001年7月から2005年8月の間に、私が配布した彼の27の<牢獄ニュース>と、 12の<流刑 ニュース>は、私たちの行動の糧となりました。
したがって、彼女やネステレンコなしには、西洋で、科学者ユーリ・バンダジェフスキーを保 護した国際的なアクションは立ち上げることができなかったでしょう。
科学への置き換えることのできない貢献は、ルーカチェンコのポスト全体主義的な体制の中 で、彼とともに音もなく、立ち消えることもあり得たのです。
『サクリファイス』の映画のリクビダートルに立ち戻るなら、チェルノブイリで、若いリクビ ダートルたちが犠牲となり、彼らが救ったことよって、四回裏切られたのです 。
まず 1) 彼らは十分情報を与えられていなかったし、防護されてもいなかった。 2) 生命と健康を賭して彼らが支払った値、そして今も支払い続けている値は、認知されて
いない。 3)彼らは治療されていない。 4)莫大なレベルの放射能に曝されたこれらの受刑者たちは、歴史のゴミのようなものとし
て、世論から忘れられた。 ということです。 公式な科学が無言でいることによって担保を与えられている<国際社会>といわれる核開発の
国々は、まったく別の方角を見ており、浪を立てずにリクビダートルたちが消滅して行くのを単 に待っているだけです。
旧ソ連の11の時間帯に無名のまま分散されて、彼らは存在しません。彼らは私たちを救ったの です。そして彼らは単に、人間として扱ってほしいと要請していたのです。
IAEA, WHO, そして開発のための国連計画が彼らの統計から、リクビダートルの均質なコホー
トを除外してしまったのです。 2005年9月5日のロンドン、ウィーン、ワシントン、トロントで同時に展開公表された<チェル
ノブイリ・フォーラム>とジョイントした彼らのコミュニケの中で、チェルノブイリの事故後 は、全て含めて、50名の死者と4000人の予想される死を公表しただけです。
ところが、ウクライナとロシア連盟の4年前の2001年の公式データでは、80万人の関与したリ クビダートルに対して 10%の死者が既に出ており、30%の障害者がいると発表されているので す。
国連の三つの機関は、これらの滑稽な数字を同じサックに入れて 3つの均質でないグループ、つ まり汚染地域の住民、1986年から87年の間に避難させられた人々とチェルノブイリ原発で介入し たリクビダートルと混ぜ合わせたのです。
すべて同じ条件で放射能の高濃度の線量を浴びた80万から100万のおよぶ元気いっぱいだった 若者たちのコホートに対して、何の特別な研究もされていません。
一つの原発の一つの事故に対処するために、なぜこれほど莫大な数の男たちが用いられたか、 その理由をしばしば問いかけるのです。統計的に予測できる事故は、産業活動に固有な平凡な出 来事ではないのでしょうか。惨事と放射線による長引く出来事に対する防護手段がないことが、 チェルノブイリでは、戦争の論理を選ばざるを得なかったのです。
このような高レベルの放射能に対する有効な防護を補償することができないので、ソ連当局 は、被ばくをできるかぎり多い介入者数によって、限られた時間内で、リスクの度合いを低く し、分刻み、時には秒単位で、こなしたのです。
事故当初の日々以降すぐ、これらすべては、現場の決定者たちが、明快な意識で、健康にとっ て実際に浴びている汚染のリスクは、莫大であることを知っていたことを証明しており、それゆ え、私が今、引用した国連機関の欺瞞的な数字を否定することを示しています。多くのリクビ ダートルが測定することを任務としている線量計の限界値を超えた被爆線量を受けたのです。
その上、この戦争の試算は、何の予測も、何の準備もなく、頭の中の抽象的な見方でした。そ れに加えて、パニックに陥った当局の即興、人間に対する軽べつ、最高の大義に奉仕する大衆を 動かす全体主義的な権力の、ほぼ限界なしの自由な行使も加えなければなりません。
防護と情報を奪われた招集された者たちは、近代テクノロジーの推定にうがたれた裂け目を彼 らの肉体で埋め合わせるために、軍事的に使われたのです。
IAEA自身や仏政府によって、今では起こりうるとされた次の過酷事故のときに、この「自由世 界」と称する国際社会が、一体どのようにやり抜くことができるかを、自問してもいいでしょ う。
5年前、それが福島で証明されました。以前の、千年に一度だという試算リスクの可能性に照 らし合わせて、チェルノブイリの後、たった 25年という取るに足らない期間で起こったのです。
今、誰がリクビダートルで、彼らがどのように雇われ、彼らの運命はどのようなものかを、私 たちに言うべきなのは、日本の当局です。福島の周辺の抑えようのない核廃棄物の貯蔵の増大を 前にして、事故収束作業員の数は、2 020年の五輪の安全を保障するために、十分と言えるので しょうか。
ここで終わりにします。ご清聴ありがとうございました。
Wladimir Tchertkoff