2020年4月28日火曜日

この米国写真家はなんと長崎の日の8月9日に原爆病で他界!一枚の写真ジョー・オダネルと竹野内真理さん!(このブログを書いてくださった方に心から感謝!!)








一枚の写真ジョー・オダネルと竹野内真理さん!


あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?






《ジョー・オダネル(ジョー・オドネルとも。Joe O'Donnell、Joseph Roger O'Donnell、1922年5月7日-2007年8月9日)は、米国文化情報局に勤務した米国の記録映像作家、フォトジャーナリスト及び写真家。ペンシルベニア州ジョンスタウン生まれ。最も有名な作品としては、1945年と1946年に日本の長崎及び広島における原爆投下直後の状況を、米海兵隊の写真家として撮影した一群の記録写真がある。 日本で特に有名であるのが彼が従軍中の長崎で撮った「焼き場に立つ少年」である。》

ジョー・オダネルは、軍の公式カメラマンとして、原爆投下の1ヵ月後の長崎に入った。そこで目にした惨状を、「日本人を撮るな」 という軍の命令に背いて、密かに持ち込んだ自分のカメラで30枚の写真に記録しアメリカに持ち帰った。しかし43年間そのネガをトランクに入れたまま封印。それを被爆者の写真を貼った反核運動の彫像を見たことをきっかけに開くことになる。・・・。

長崎の火葬場で撮影された一人の少年。背負っているのは原爆で死んだ弟です。弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える少年。歯を食いしばるその唇には、血が滲んでいたといいます。写真を撮影したのはジョー・オダネル軍曹。

長崎を南北に貫く浦上川。そのほとりに下りていったオダネルは、生涯忘れられない光景と出会います。そこは火葬場でした。焼け野原を一人の少年が歩いてきました。少年は、背中に小さな弟の亡骸(なきがら)を背負っていました。

オダネル:
『一人の少年が現れた。背中に幼い弟を背負っているようだった。火葬場にいた2人の男が弟を背中から外し、そっと火の中に置いた。彼は黙って立ち続けていた。まるで敬礼をしているかのように。炎が彼のほおを赤く染めいてた。彼は泣かず、ただ唇をかみしめていた。そして何も言わず、立ち去っていった…』
帰国後、オダネルは長崎での記憶に精神をさいなまれます。

オダネル:
被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。私は長崎での光景を思い出すまいとした。しかしその光景は頭から離れず、私をさいなみ続けた。あの時のアメリカの決断は正しかったと言えるのだろうか。
眠ろうとしても眠れないのだ。悪夢が終わらないのだ。写真を見たくなかった。見ると長崎の悪夢がよみがえってしまう。』

苦しみから逃れるため、オダネルは全ての写真をトランクに封印しました。屋根裏部屋に隠し、以後43年間開ける事はありませんでした。
日本に原爆を落としたことをどう思っているのか。オダネルは一度だけ、自分の思いをトルーマン大統領にぶつけました。それは1950年の出来事でした。

オダネル:
『大統領、私は長崎と広島で写真を撮っていました。あなたは日本に原爆を落としたことを後悔したことはありませんか?』
彼は動揺し顔を真っ赤にしてこう言った。
『当然それはある。しかし原爆投下じゃ私のアイデアではない。私は前の大統領から単に引き継いだだけだ。』

オダネル『誤解しないでほしい。私はアメリカ人だ。アメリカを愛しているし国のために戦った。しかし母国の過ちを、なかったことにできなかった。退役軍人は私のことを理解してくれないだろう。私は死の灰の上を歩きこの目で惨状を見たのだ。確かに日本軍は中国や韓国に対してひどいことをした。しかしあの小さな子どもたちが何かしただろうか。戦争に勝つために、本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか。1945年、あの原爆はやはり間違っていた。それは100年たっても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に。歴史は繰り返すというが、繰り返してはいけない歴史もあるはずだ。』

オダネルは(2007年)8月、85歳で(原爆病のため)息を引き取った。その日はくしくも長崎原爆と同じ8月9日だった。

オダネル:
アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。嫌がらせの手紙や投稿がどんどん集まってくる。「お前は裏切り者だ」「アメリカが嫌なら日本へ行け」と。

ある時、娘が教えてくれた。「お父さんの活動に味方する投稿が一つだけあるよ。
それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。

その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。

『オダネルを批判する人たちに言いたい。まず図書館に行け。私がしたように。
原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。
図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』

私はそれを読み、こりゃすばらしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。
息子が、私が日本に居た時と同じ、23才の頃だった。

その後、息子はこう言ってくれた。

『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。平和のために、命をかけて、写真を伝えていくよ』」

タイグ氏:
「僕は、父の苦しみを理解しきれていなかった。
父の写真は、アメリカに、複雑な感情を抱かせる。
けれど父は、目撃してしまった。 そして彼の息子もまた亡き父の意志を引き継ぎ現在活動をされています。
http://m.youtube.com/watch?v=S0xsMPGVFE0&fulldescription=1&hl=ja&gl=JP&client=mv-google

『戦争は人を狂わす!』by野坂昭如
私事ではありますが、私は中一の多感な時期に広島原爆資料館を訪れそこで始めて原爆の凄まじさを目の当たりにし、食事が喉を通らなくなった記憶がある。現実はもっと悲惨で想像をはるかに超えるものだったのであろう。戦争からは何も生まれない悲劇をもたらすだけだと思っている。敗戦の教訓が全く生かされぬまま現在に至る我が国、情けない話しだ。そして日本は今どこへ向かおうとしているのか?オダネルが言ったように二度と繰り返しては行けない歴史だ。

I am not ABE!
【止めよう戦争への道!】http://blog.m.livedoor.jp/million_yamanashi/article/7883859?guid=ON
【安倍はアジアでもっとも危険な人物】http://saigaijyouhou.com/blog-entry-2578.html
【安倍の祖父岸信介の恐ろしい話】
http://fukushimaworkerslist.blogspot.jp/2013/05/cia.html

安倍が危険な人物である事は竹野内真理さんのファイルにもあります

私は竹野内さんの存在を知った時なぜかジョー・オダネルと重なるものを感じました。お二人とも真実を伝える事で弾圧を受けているからでしょうか?両者共真の人間らしさ強い正義感情熱のようなものが伝わってきます。

竹野内さんは他にも放射能問題や様々な問題を追及しブログなどで真実を発信して下さっています。

多数の方々がその情報は驚愕するほど正確なものであるとネット上でものべられています。(竹野内注:ここの部分、非常にありがたかったかも。。いつも嫌がらせ者にめちゃくちゃに言われてきたので。。。)

しかし一部の方々にとってはマズイ情報もあるのでしょうか?日々弾圧を受け竹野内さんに対する嫌がらせ行為は後を断ちません。

私がもっとも尊敬している真のジャーナリスト竹野内真理さんの存在を一人でも多くの方に知って欲しいと思います。(Piyopiyoさん本当にありがとうございます!!)

Blogs: http://savekidsjapan.blogspot.com http://koukaishitsumon.blogspot.jp http://takenouchimari.blogspot.jp
Video with English speech: http://maritakenouchiyoutube.blogspot.jp/2014/08/mari-takenouchi-speech-at-ny-academy-of.html
Twiter: http://twitter.com/#!/mariscontact
Facebook: http://www.facebook.com/mariscontact
竹野内真理(ジャーナリスト、翻訳家)
「人間と環境への低レベル放射能の脅威」と「低線量内部被曝の脅威」
原発閉鎖が子供を救う」(Sr90について)を共訳
内部被曝」(扶桑社新書)ー解説執筆
ブログ:http://savekidsjapan.blogspot.com http://koukaishitsumon.blogspot.jp http://takenouchimari.blogspot.jp  http://fukushimaworkerslist.blogspot.jp
ツイッターhttp://twitter.com/#!/mariscontact
フェイスブックhttp://www.facebook.com/mariscontact

何度も言っておりますが、真実を追及する方々が口封じなどの為に消されてしまうような世の中であってはなりません。竹野内さんへの弾圧はネット上だけの嫌がらせ行為だけでは止まらず、息子さんに不審者が近づいたり理不尽な告訴を受けたり、その存在を一人でも多くの方が知る事により、少しでもそれらの妨害や身の危険から守る事ができたら、竹野内さんからの貴重な発信ブログやファイル拡散のご協力をお願い致します。
命懸けで闘い続けて下さる真のジャーナリスト竹野内真理さんへどうかエールを!!
 

2021年(令和3年)89日  

被爆者代表  岡 信子

 

ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。

 

戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。

 

当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪の大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。

 

長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。

 

89日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身に怪我(けが)を負いました。

 

被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシュットウセヨ」との電報があり、新興善救護所へ動員されました。

 

看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見様見真似(みようみまね)で救護に当たりました。

 

3階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、23階はすぐにいっぱいとなりました。

 

亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。

 

解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりウジだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。

 

その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。

 

不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にウジがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡きがらや、瓦礫(がれき)で道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善へ戻ったりの繰り返しでした。

 

大怪我をした父を時津(とぎつ)国民学校でやっと捜すことができました。

 

「お父さん生きていた! 私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱きつきました。

 

父を捜す途中、両手でおなかから飛び出した内臓を抱えぼうぜんと立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首がちぎれた乳飲み子に最後のお乳を含ませようとする若い母親を見ました。

 

道ノ尾救護所では、小さい弟をおぶった男の子が「汽車の切符を買ってください」と声を掛けてきました。

 

「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を思い、胸が詰まりました。

 

今年1月に、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。核兵器廃絶への一人一人の小さな声が世界中の大きな声となり、若い世代の人たちがそれを受け継いでくれたからです。

 

今、私は大学から依頼を受けて「語り継ぐ被爆体験」の講演を行っています。

 

私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。

 

2021年(令和3年)89日  被爆者代表  岡 信子

 

 

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