2020年4月28日火曜日

ネステレンコとバンダジェフスキー

『サクリファイス』について (西宮) ヴラディミール・チェルトコフ

http://enfants-tchernobyl-belarus.org/HTML/Wladimir-Japon/a-propos-sacrifice-jp.html


この映画の真の作者は、私ではないことを申し上げておかねばなりません。
本当の作者は、チェルノブイリについての私の三本の映画を編集したプロの編集者エマヌエ ラ・アンドレオリです。エマヌエラは、この映画によって、ヨーロッパを救った英雄たちの尊厳 に対して敬意を表しておきたかったのです。
1990年、1998年、2001年と11年間に及ぶ期間の間に、チェルノブイリの五人のリクビダートル (事故収束作業員)たちと三度出会った際に私たちが収録した数十時間に及ぶ撮影したフィルム のラッシュを元に構想し、この映画を製作したのです。
複数の9つの映画祭に選ばれ、四回賞をもらい、2004年にはフランスのウーラン市の科学映画 祭で最優秀賞を受賞しました。
審査委員会は、短い批評で、その選択理由を説明しました。
ジャン=リュック・ゴダールは、みずからの映画理論で、最も真面目な方法について問いかけ ました。『映画とは何でしょうか。彼はそれに応えて、<何でもない>と。映画は何を欲してい るのかと問われ、<すべてである>、と応えました。最後に、映画は何が出来るのか、との問い に、<何かだ>、と応えています。
エマヌエラ・アンドレオリとヴラディーミル・チェルトコフは、『サクリフィス』という驚嘆 すべき映画を作りました。この映画は、一度に世界の現実と映画の真実へと私たちを駆立てま す。
むろん、アンドレイ・タルコフスキーへのオマージュとなっている映画(タルコフスキーの最 後の作品は『サクリファイス』と題されていた)は、畏怖すべき到来ですが、とりわけ、 17年間 取材して、証人たちの赤裸々な言葉を聞き届けさせるために作られた映画でもあり、その証人た ちの病気で蝕まれた身体は、現実の中で証拠を与えているようには決して見えないのです。たし かに、チェルノブイリの原発惨事の証言として、当たり前の体と無名の人たちの崇高化以上に、 勝るものはあるでしょうか 』(引用終わり)
私は医者でも物理学者でもなく、ジャーナリストなので、リクビダートルの生の肉声の証言に ついて、健康や彼らの身体の放射能汚染について、つまり現実の証拠について厳密に語る資格を 持っていません。
2005年11月12日に『サクリフィス』は、PSR / IPPNW主催、スイスはベルヌ大学医学部後援で 催された『リクビダートルの健康、チェルノブイリ原発の爆発の 20年後』と題する国際科学シン ポジウムで、確証として紹介されました。スイス、ロシア、ウクライナ、カナダ、ベラルーシの医 者、物理学者13人のパネラーが参加しました。
日本の内科医で兵庫医科大学で遺伝学の助教授、振津かつみさんはベルヌ会議に参加していま した。7年後に福島事故が発生しました。エマヌエラ・アンドレオリが彼女にDVDを渡し、日本 に持ち帰った振津さんが藤野聡さんに字幕の翻訳・制作を依頼し、振津さんが監修して、この日 本語版が出来たのです。
シンポジウムのカタログには、このように書かれています。
「<完結編の講座>は、チェルノブイリのリクビダートル(事故収束作業員) 80万人のを襲っ た人工放射線の健康影響について割り当てられます。彼らは基本的には若い成人(平均年齢 33 歳)で、招集をうけ、チェルノブイリ原発の原子炉周辺の、非常に高度に汚染された場所を除染 しなければなりませんでした。彼らの半分は軍人で、ソビエト連邦のあらゆる共和国からの出身 者でした。他の人たちは、技術者たちです。市民、炭坑夫、建設労働者、パイロット、運転手、 健康な若い男性、女性たちです。
最初の数週間は、リクビダートルへの外部ひばくが支配的でした。
非常に早く、内部ひばくが放射性ヨウ素やセシウム、ストロンチウムなどを吸い込むことに よって、リクビダートルは増大する内部ひばくを受けることになります。線量計は、増々難しい 役割を負う羽目になります。他方、当初の線量計は、これほどの高い線量を計るのに不向きでし た。
2005年のプレス・リリースのなかで、在パリ・ウクライナ大使館は、汚染された住民(ウクラ イナの人口は264万6106人の医療統計)は、年を追うごとに、病人の比率は増え続け、94%のリク ビダートルが病気である。彼らのうちの多くが既に死亡している、と表明しています。 引用します。 「わたしどもは、これらの病気の幾つかを研究しています。神経精神科、耳鼻喉頭科、眼科、心 臓科、腫瘍科、そして遺伝学そして生理病理学の専門家は、彼らの観察結果を発表するでしょ う。」
<引用終わり> バーゼル大学医学部名誉教授ミシェル・フェルネ医師は、撮影されたドキュメントの医学的様
相について、コメントしました。 彼はシンポジウムで、この映画を試写することは、病気の問題に言及する以前に重要なアプ
ローチだと自説を述べました。すなわち、映画の映像とリクビダートルの証言は、論争の数多く の課題と主題に解答を与える、というのです。
彼は以下のようにメモしました。引用します。
「各リクビダートルの受けた線量は、作業を調整している上司からどのような任務をまかされ たのかによる。政府当局の通達は、壊れた原子炉の周辺で、許しがたい条件の下で作業したこれ らの兵隊たちが受けた線量を出来るだけ過小評価するように強要した。人体の臓器に負荷を与え る放射能は、外部ひばくと内部ひばくによってもたらされ る。登記簿に記された過小評価された 線量は、外部被爆しか対象にしてない。
放射線核種の汚染度の高いチリを吸い込んだことによる内部ひばくを考慮していない専門家た ちの報告書は、チェルノブイリの犠牲者のリストから、こうした疾病や死を排除している。
映画は、志願したといわれるこうしたリクビダートルがどのように働き、放射能ガスや燃焼ウ ラン派生物の放射性核種やプルトニウムの微粒子を含むチリのを吸い込む危険性がどのくらい あったのかを説明している。
内部ひばくのうち、最も重大なのは、莫大なエネルギーを持った粒子、アルファ線による線量 で、周辺の細胞眞で損害を与え、とりわけ遺伝子を運ぶ組織に傷を付ける。そこから、ガンや遺 伝的病気や子どもの奇形が発生する。
放射性核種の密度の高いチリを吸引すること、とりわけ、難病を発生させるナノ粒子を付着さ せる放出されたウラニウムの煙や目に見えないチリの吸引だ。
映画は、彼らの作業が、様々な仕事の中でも、放射性の土を掻きとり、大きな穴に埋めるため に、スコップでトラックに積み上げることだった。
肺に付着するものであれ、他の異なった諸臓器を循環するものであれ,異なった放射性核種を 避けがたく吸引することは、周辺の細胞を数十年の単位で被ばくさせ、破損させる。 リクビダートルは、加速する老化現象を記述する。この症状 -早熟の老化- は、昔は、慢性のひ ばく効果として知られていたが、チェルノブイリ後、放射線による病気のリストから外された。
主治医は、慢性ひばくによるこれらの疾病について知っている様子がない。状況が悪化すると き、診療を依頼された先生たちは、これらの見知らぬ病気に力が及ばず、無力になっているが、 ベラルーシといえば、医者の養成レベルが高いことで知られているのだ。
例えば、西欧の専門家たちが甲状腺ガンの伝播の事実を認めるまで、5年から8年かかっている のに、この国ではその事実をすぐに明らかにしたのだ。
最終的に、この映画は、科学的な追跡調査が行われていないことを明らかにしている。重病で 見捨てられ、国家から、そして統計から忘れられたこれらの犠牲者たちに対して、自治体は無関 心でいることを示している。
ではこれから、異なった分野のふたりのリクビダートルをご紹介しましょう。ベルヌ・シンポ ジウムのパネラーの一人、ヴァシーリ・ネステレンコというリクビダートルです。
彼は例外的な科学者で、彼なしにはチェルノブイリの真実は知ることができなかったでしょ う。そしてそのことについて、私たちはここで語ることができます。
信じられないことですが、彼なしには、私たちは何も知りえないのです。そうでなければ、 チェルノブイリに関する嘘を語るための正当な証拠がないので、私は、今日、皆さんの前でお話 しすることはなかったでしょう。
ヴァシーリ・ネステレンコは、三つの異なった次元で、リクビダートルでした。 第一段階:原子炉の爆発後の5日目、1986年5月1日の朝、チェルノブイリの二回の熱爆発より もっと破壊的な原子爆発が起こらないようにするために、火災を消し、液体窒素を炉心に注ぎ込 むための方法を見つけようと、ヘリコプターで原子炉の上を飛んだのです。 リスクを自覚しなが ら、そのリスクを知らずにいた他のリクビダートルとともに、彼は非常に強い線量の場に自分の 身体を曝しました。 彼は、リクビダートルの被ばくを抑えるために原子炉の放出する放射能を計りながら、自らの 健康を壊すこともいとわなかったのです。病弱になりながらも、自分の同胞と彼らの子どもたち を守るために、自分に残された体力を調整することもしませんでした。
第二段階:才能のある数学者、物理学者で、冷戦時代のソビエト連邦には欠かさざる人物で あったネステレンコは、権力の頂点まで、それを行使することなく、垂直に昇り詰めました。状 況の深刻さをすぐ理解し、事故のすぐ直後から、無気力で、惨事が拡散していることを認めよう としないソ連当局とすぐさま衝突し始めました。
1986年から1990年の4年間の間、汚染地帯の放射線についてほとんど日毎に無数の科学的報告 とすぐ取るべき措置を当局側に送り続けました。それらの複写を持っている資料は 1000部に及び ます。
原子炉は4月26日土曜日に爆発しました。そのことを彼には隠していたのです。彼は 27日日曜に ミンスクの彼の研究所の所用をかたずけるためにモスクワへ行き、28日月曜、クレムリンに到着 して初めて事故が起こったことを知りました。
ブラーギンで、またモージル、コイニキでも放射能を測定しました。いたるところで、汚染は 自然の放射能のレベルの数千倍に達していたのです。つまり、それは、原発から 100キロ周辺地区 の住民を避難させねばならないことを意味しました。そして彼はそれを要求したのです。
彼は素朴な民衆に忠実で、自分自身もその出身なので、自分のキャリアと安全を投げ打ち、彼 らを守るために、無知と嘘を除去しようと必死に努力したのです。
第三段階:ベラルーシ科学アカデミー所属の原子力エネルギー研究所を10年間、主導して来た のでしたが、彼について来た協力者たちのチームとともに、子どもたちの身体組織の中に入り込 んだ核の毒を除去するために、独立放射線防護研究所『ベルラド』を立ち上げます。
この人の職業的、人間的経歴はどのようなものだったのでしょうか。
1977年から1987年まで、ヴァシーリ・ネステレンコは、自分も会員だったベラルーシ科学アカ デミーの原子力研究所の所長でした。
核物理学分野における300以上の科学特許の所有者で、ソ連邦時代には、軍事的理由で禁止に なっていた都市に入る権利さえ持っていました。彼はミニサイズの原子炉の発明者、建設者で、 それはヘリコプターで移動可能であり、米国の原子力潜水艦の可動性に対抗するために、移動式 の大陸間弾道弾を発射させることができるものでした。
ヴァシーリ・ネステレンコは放射能がなんであるかを知っていましたし、子どもが大好きでし た。彼は、どのように、子どもたちが数千の単位で避難させられるのかを見ていました。ゴメリ の駅で、子どもたちが母親たちから引き裂かれ、出発する列車の車両に押し込まれる様子を見て いたのです。
彼は、ドイツ国防軍(ヴェアマハト)が、赤軍の空爆の下で、自分の村から撤退するにあたっ て、子どもと女たちを戦車の前に集まらせ、この人間の盾の後ろで願わくば、自己防御できるで あろうとして行なったことについて、私に話してくれました。
それは、長い旅の後、泣き疲れた同じ子どもたちがミンスクの自分の研究所に到着するのを見 たような気がしたのです。彼らを押し込んだのはナチスではなかったのです。
彼らの身体から発散する放射能を計り始めました。彼らの服に近づくと、線量計の針が最高値 の末端で動かなくなってしまったのを見て、彼は、科学者の自分の権能を、このような惨事を引 き起こすテクノロジーのために二度と使うまいと決心したのです。彼は、まさにこのとき、犠牲 者を助けることはあっても、この科学に二度と関わるまいと決心したのです。
2004年、インタヴューの中で、ソ連は、もし1986年5月8日までに火災を消化できなければ、 ヨーロッパを生活不可能な土地にしてしまうかもしれない原子爆発が起こるのを恐れていたと断 言しました。
フランスの科学者たちは、そんなことは不可能だと明言して、この仮説に疑問を投げました。 私は、ネステレンコに、ソ連の科学者たちの心配を科学的に補強してほしいと頼みました。彼 は2005年1月17日に返事をくれました。
私はここで、彼の長い返事の断片を引用してみます。(これは私の本『チェルノブイリノ犯 罪』(緑風出版2015)の第一部三章に入っています)
<私は1986年5月1日に、私がミンスクのKGB本部に召集され、そこで、チェルノブイリにいた レガソフ(チェルノブイリの事故対策委員会の最高責任者)と高周波による電話交信で会談した のをよく覚えている。
彼は、壊れた原子炉の中に液体窒素を挿入する案を語った。すなわち、液体窒素が蒸発する過 程で、空気(酸素)を移動させることによって、黒煙の燃焼を止めることができるかもしれな い、と想定したのだ。あとは、私に現場の状況を判断してもらうために、私をヘリコプターで迎 えに行くと、言った。
事故後、原子炉が燃えているとき(それは 10日に及んだが)、100人以上の専門家が現地を訪 れた。全てのものが、何かを研究し、事故を収束させるための様々なシナリオを提案した。
ヘリコプターで原子炉上空を飛んでいる間、私たちは液体窒素を運んで来るトラックの搬入経 路を探した。それは液体窒素を壊された原子炉のなかに運び込み、空気を移動させ、燃えている 黒鉛を消すためだ。
192トンのウラニウム(ウラン235の1,8%濃縮したもの)を内包する原子炉の動いている1700の 経路と、厚さ1メートルのコンクリート台の上に原子炉全部が載っている。原子炉の下は、核廃棄 物を集めるための堅固なセメントの部屋がしつらえてある。作業員は、巡回ポンプで原子炉の水 を吸引し続けているので、水はもちろんこの鉄骨の入った地下室に漏れて入り込むだろう。
大きなリスクが顕在化した。もし溶融したマグマが原子炉の下のセメントの台座を貫通し、地 下のセメントの部屋に入り込むと、原子爆発の好条件が出来る。
1986年4月28-29日に、シュミレーションの試算によると、ウランと黒鉛、そして水の混合 物1400キログラムが融点可能な塊と化し、それが3-5メガトン(広島原爆の50-80倍)級の破壊力 を持つ原子爆発へと導くかもしれない。
このような威力の爆発は、ミンスクの町全体を包み込む、300-320kmの範囲の空間の住民たち の膨大な放射線障害を引き起こすかもしれない。そしてヨーロッパすべてが正常な生活が不可能 な放射能汚染によって犠牲になるだろう。
私には、ある確かな情報で知っていることが一つある。もし、このような必要性が生まれた場 合、住民の避難のためにミンスク、ゴメリ、モギレフや他の都市に集められた列車車両は、チェ ルノブイリ原発から 300-350キロの内側に入るのだ。
1986年5月8-9日に爆発が起こるのではないかと危惧された。それゆえ、原子炉で燃えている黒 鉛をこの期限より前に消化するためのあらゆる手段が講じられた。
モスクワとドンバス地方の周辺の数万人の炭坑夫が緊急に召集された。彼らが原子炉の下に坑 道を掘り、原子炉のセメント台座を冷すために冷却用蛇腺を設置し、この台座にいかなるヒビが 生じる可能性をも排除しなければならなかった。
鉱夫たちは、セメント台座を救うために、極悪の条件(高温、高い放射線)で作業せざるを得 なかった。滅私奉公の精神で、これらの男たちが起こりうる核爆発を予期して作業したこと、こ の行為の価値を低く見積もることは不可能だ。これらの若い人々のほとんどが障害者となり、彼 らの多くが30-40歳の若さで、亡くなったのだ。
私の考えでは、私たちはチェルノブイリにおける核爆発を危機一髪で防いだのです。もしそれ が起こったならば、ヨーロッパは住めなくなったでしょう。ヨーロッパの民衆は、私の考えで は、命を賭して、極度に重要な原子の悲劇の大陸を救った数十万人のリクビダートルに絶えない 感謝の意を表明すべきであろうと思います。
もう一人の非合法のリクビダートルは、ユーリ・バンダジェフスキーです。
1999年9月、事態の幸運な結びつきによって、私の映画を出品したある映画祭で、スヴェトラー ナ・アレクシェーヴィッチと初めて出会ったおかげで、解剖病理学者ユーリ・バンダジェフス キーがルーカチェンコ大統領の独房に7月以来、入れられてひどい目に遭っていることを知りまし た。二ヶ月がすぎ、彼のことを西洋では誰も知りませんでした。
私が前年の5月に知り合ったネステレンコから、この奇特な研究者が汚染地で進行している事 実を看破し、公式の教条を覆すデータを収集していると賞賛を込めて私に語ったのでした。
心臓科医で小児科医の連れ合いガリーナとともに、心臓の形態や機能に現れる病変の頻度と程 度が、体内に蓄積する放射性セシウムの量に比例して増大することを発見したのです。
彼はこう説明していました。これは子どもや若者、そして成人における心臓トラブルであり、 心筋の劣化を伴う。このことによって、あらゆる年齢で、突然死が発生するようになると。
バンダジェフスキーとその研究チームは、「免疫系と同じレベルで心臓、肝臓、腎臓、内分泌 系でも、相互依存的に病状が進行する」ことを報告していました。
こうした病変はどれも同じ病理経過に起因している。彼らはそれを『体内に取り込まれた半減
期の長い放射性核種によって引き起こされる病理現象』と呼びました。 こうした病理が明らかにされたのは、ゴメリ医科大学がその設備を駆使して、子どもと成人を
対象に実施した精密検査のおかげです。 臨床、動物実験、そして解剖という三通りの方向性から 25人の医学教授が9年間に渡ってこの
テーマを研究しました。ゴメリ医科大学は教員が 200名、嘱託職員300名、そして学生が 1500名、 いました。
今、私は過去形で語らざるをえません。というのも、歴史的に重要な初めての核惨事によって 汚染された地域で、唯一の研究道具だった施設は、今では全て破壊されたからです。
スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチと私が話したとき、そのことを誰も知りませんでし た。厳密な情報が欲しいときには、私はヴァシーリ・ネステレンコに電話をしました。
私は初めのうち、電話が盗聴されるのを恐れて、ネステレンコに質問するときは、言葉をオブ ラートに包んだり,ほのめかしを使ったりしました。
自国でアカデミー会員で尊重される科学者だったことは、彼の精神的強固さも相まって、彼が 自由に発言し、ベラルーシ厚生省の犯罪的政策をオープンに批判することができました。ベラ ルーシ厚生省は、ウイーンのIAEAと直接繋がっており、自国の政府に情報を隠していたのです。 ネステレンコは、国際原子力ロビーの壁に、隙間を空けたのです。そしてそこから真実がこぼれ 出たのです。
私は、彼なしには、チェルノブイリの真実は得ることができなかったろうと断言します。私た ちは、彼なしには、バンダジェフスキーによって研究され発見された核産業によって引き起こさ れた犠牲になった住民の重大な健康における損害の科学的証拠は、得られなかったでしょう。
ネステレンコは、世界が小児科医、心臓科医のガリーナ・バンダジェフスカヤに背を向けたと き、二人の娘とともに、一人で残された彼女を支えたのでした。
2001年7月から2005年8月の間に、私が配布した彼の27の<牢獄ニュース>と、 12の<流刑 ニュース>は、私たちの行動の糧となりました。
したがって、彼女やネステレンコなしには、西洋で、科学者ユーリ・バンダジェフスキーを保 護した国際的なアクションは立ち上げることができなかったでしょう。
科学への置き換えることのできない貢献は、ルーカチェンコのポスト全体主義的な体制の中 で、彼とともに音もなく、立ち消えることもあり得たのです。
『サクリファイス』の映画のリクビダートルに立ち戻るなら、チェルノブイリで、若いリクビ ダートルたちが犠牲となり、彼らが救ったことよって、四回裏切られたのです 。
まず
1) 彼らは十分情報を与えられていなかったし、防護されてもいなかった。 2) 生命と健康を賭して彼らが支払った値、そして今も支払い続けている値は、認知されて
いない。
3)彼らは治療されていない。 4)莫大なレベルの放射能に曝されたこれらの受刑者たちは、歴史のゴミのようなものとし
て、世論から忘れられた。
ということです。 公式な科学が無言でいることによって担保を与えられている<国際社会>といわれる核開発の
国々は、まったく別の方角を見ており、浪を立てずにリクビダートルたちが消滅して行くのを単 に待っているだけです。
旧ソ連の11の時間帯に無名のまま分散されて、彼らは存在しません。彼らは私たちを救ったの です。そして彼らは単に、人間として扱ってほしいと要請していたのです。
IAEA, WHO, そして開発のための国連計画が彼らの統計から、リクビダートルの均質なコホー
トを除外してしまったのです。 2005年9月5日のロンドン、ウィーン、ワシントン、トロントで同時に展開公表された<チェル
ノブイリ・フォーラム>とジョイントした彼らのコミュニケの中で、チェルノブイリの事故後 は、全て含めて、50名の死者と4000人の予想される死を公表しただけです。
ところが、ウクライナとロシア連盟の4年前の2001年の公式データでは、80万人の関与したリ クビダートルに対して 10%の死者が既に出ており、30%の障害者がいると発表されているので す。
国連の三つの機関は、これらの滑稽な数字を同じサックに入れて 3つの均質でないグループ、つ まり汚染地域の住民、1986年から87年の間に避難させられた人々とチェルノブイリ原発で介入し たリクビダートルと混ぜ合わせたのです。
すべて同じ条件で放射能の高濃度の線量を浴びた80万から100万のおよぶ元気いっぱいだった 若者たちのコホートに対して、何の特別な研究もされていません。
一つの原発の一つの事故に対処するために、なぜこれほど莫大な数の男たちが用いられたか、 その理由をしばしば問いかけるのです。統計的に予測できる事故は、産業活動に固有な平凡な出 来事ではないのでしょうか。惨事と放射線による長引く出来事に対する防護手段がないことが、 チェルノブイリでは、戦争の論理を選ばざるを得なかったのです。
このような高レベルの放射能に対する有効な防護を補償することができないので、ソ連当局 は、被ばくをできるかぎり多い介入者数によって、限られた時間内で、リスクの度合いを低く し、分刻み、時には秒単位で、こなしたのです。
事故当初の日々以降すぐ、これらすべては、現場の決定者たちが、明快な意識で、健康にとっ て実際に浴びている汚染のリスクは、莫大であることを知っていたことを証明しており、それゆ え、私が今、引用した国連機関の欺瞞的な数字を否定することを示しています。多くのリクビ ダートルが測定することを任務としている線量計の限界値を超えた被爆線量を受けたのです。
その上、この戦争の試算は、何の予測も、何の準備もなく、頭の中の抽象的な見方でした。そ れに加えて、パニックに陥った当局の即興、人間に対する軽べつ、最高の大義に奉仕する大衆を 動かす全体主義的な権力の、ほぼ限界なしの自由な行使も加えなければなりません。
防護と情報を奪われた招集された者たちは、近代テクノロジーの推定にうがたれた裂け目を彼 らの肉体で埋め合わせるために、軍事的に使われたのです。
IAEA自身や仏政府によって、今では起こりうるとされた次の過酷事故のときに、この「自由世 界」と称する国際社会が、一体どのようにやり抜くことができるかを、自問してもいいでしょ う。
5年前、それが福島で証明されました。以前の、千年に一度だという試算リスクの可能性に照 らし合わせて、チェルノブイリの後、たった 25年という取るに足らない期間で起こったのです。
今、誰がリクビダートルで、彼らがどのように雇われ、彼らの運命はどのようなものかを、私 たちに言うべきなのは、日本の当局です。福島の周辺の抑えようのない核廃棄物の貯蔵の増大を 前にして、事故収束作業員の数は、2 020年の五輪の安全を保障するために、十分と言えるので しょうか。
ここで終わりにします。ご清聴ありがとうございました。
Wladimir Tchertkoff

この米国写真家はなんと長崎の日の8月9日に原爆病で他界!一枚の写真ジョー・オダネルと竹野内真理さん!(このブログを書いてくださった方に心から感謝!!)








一枚の写真ジョー・オダネルと竹野内真理さん!


あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?






《ジョー・オダネル(ジョー・オドネルとも。Joe O'Donnell、Joseph Roger O'Donnell、1922年5月7日-2007年8月9日)は、米国文化情報局に勤務した米国の記録映像作家、フォトジャーナリスト及び写真家。ペンシルベニア州ジョンスタウン生まれ。最も有名な作品としては、1945年と1946年に日本の長崎及び広島における原爆投下直後の状況を、米海兵隊の写真家として撮影した一群の記録写真がある。 日本で特に有名であるのが彼が従軍中の長崎で撮った「焼き場に立つ少年」である。》

ジョー・オダネルは、軍の公式カメラマンとして、原爆投下の1ヵ月後の長崎に入った。そこで目にした惨状を、「日本人を撮るな」 という軍の命令に背いて、密かに持ち込んだ自分のカメラで30枚の写真に記録しアメリカに持ち帰った。しかし43年間そのネガをトランクに入れたまま封印。それを被爆者の写真を貼った反核運動の彫像を見たことをきっかけに開くことになる。・・・。

長崎の火葬場で撮影された一人の少年。背負っているのは原爆で死んだ弟です。弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える少年。歯を食いしばるその唇には、血が滲んでいたといいます。写真を撮影したのはジョー・オダネル軍曹。

長崎を南北に貫く浦上川。そのほとりに下りていったオダネルは、生涯忘れられない光景と出会います。そこは火葬場でした。焼け野原を一人の少年が歩いてきました。少年は、背中に小さな弟の亡骸(なきがら)を背負っていました。

オダネル:
『一人の少年が現れた。背中に幼い弟を背負っているようだった。火葬場にいた2人の男が弟を背中から外し、そっと火の中に置いた。彼は黙って立ち続けていた。まるで敬礼をしているかのように。炎が彼のほおを赤く染めいてた。彼は泣かず、ただ唇をかみしめていた。そして何も言わず、立ち去っていった…』
帰国後、オダネルは長崎での記憶に精神をさいなまれます。

オダネル:
被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。私は長崎での光景を思い出すまいとした。しかしその光景は頭から離れず、私をさいなみ続けた。あの時のアメリカの決断は正しかったと言えるのだろうか。
眠ろうとしても眠れないのだ。悪夢が終わらないのだ。写真を見たくなかった。見ると長崎の悪夢がよみがえってしまう。』

苦しみから逃れるため、オダネルは全ての写真をトランクに封印しました。屋根裏部屋に隠し、以後43年間開ける事はありませんでした。
日本に原爆を落としたことをどう思っているのか。オダネルは一度だけ、自分の思いをトルーマン大統領にぶつけました。それは1950年の出来事でした。

オダネル:
『大統領、私は長崎と広島で写真を撮っていました。あなたは日本に原爆を落としたことを後悔したことはありませんか?』
彼は動揺し顔を真っ赤にしてこう言った。
『当然それはある。しかし原爆投下じゃ私のアイデアではない。私は前の大統領から単に引き継いだだけだ。』

オダネル『誤解しないでほしい。私はアメリカ人だ。アメリカを愛しているし国のために戦った。しかし母国の過ちを、なかったことにできなかった。退役軍人は私のことを理解してくれないだろう。私は死の灰の上を歩きこの目で惨状を見たのだ。確かに日本軍は中国や韓国に対してひどいことをした。しかしあの小さな子どもたちが何かしただろうか。戦争に勝つために、本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか。1945年、あの原爆はやはり間違っていた。それは100年たっても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に。歴史は繰り返すというが、繰り返してはいけない歴史もあるはずだ。』

オダネルは(2007年)8月、85歳で(原爆病のため)息を引き取った。その日はくしくも長崎原爆と同じ8月9日だった。

オダネル:
アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。嫌がらせの手紙や投稿がどんどん集まってくる。「お前は裏切り者だ」「アメリカが嫌なら日本へ行け」と。

ある時、娘が教えてくれた。「お父さんの活動に味方する投稿が一つだけあるよ。
それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。

その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。

『オダネルを批判する人たちに言いたい。まず図書館に行け。私がしたように。
原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。
図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』

私はそれを読み、こりゃすばらしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。
息子が、私が日本に居た時と同じ、23才の頃だった。

その後、息子はこう言ってくれた。

『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。平和のために、命をかけて、写真を伝えていくよ』」

タイグ氏:
「僕は、父の苦しみを理解しきれていなかった。
父の写真は、アメリカに、複雑な感情を抱かせる。
けれど父は、目撃してしまった。 そして彼の息子もまた亡き父の意志を引き継ぎ現在活動をされています。
http://m.youtube.com/watch?v=S0xsMPGVFE0&fulldescription=1&hl=ja&gl=JP&client=mv-google

『戦争は人を狂わす!』by野坂昭如
私事ではありますが、私は中一の多感な時期に広島原爆資料館を訪れそこで始めて原爆の凄まじさを目の当たりにし、食事が喉を通らなくなった記憶がある。現実はもっと悲惨で想像をはるかに超えるものだったのであろう。戦争からは何も生まれない悲劇をもたらすだけだと思っている。敗戦の教訓が全く生かされぬまま現在に至る我が国、情けない話しだ。そして日本は今どこへ向かおうとしているのか?オダネルが言ったように二度と繰り返しては行けない歴史だ。

I am not ABE!
【止めよう戦争への道!】http://blog.m.livedoor.jp/million_yamanashi/article/7883859?guid=ON
【安倍はアジアでもっとも危険な人物】http://saigaijyouhou.com/blog-entry-2578.html
【安倍の祖父岸信介の恐ろしい話】
http://fukushimaworkerslist.blogspot.jp/2013/05/cia.html

安倍が危険な人物である事は竹野内真理さんのファイルにもあります

私は竹野内さんの存在を知った時なぜかジョー・オダネルと重なるものを感じました。お二人とも真実を伝える事で弾圧を受けているからでしょうか?両者共真の人間らしさ強い正義感情熱のようなものが伝わってきます。

竹野内さんは他にも放射能問題や様々な問題を追及しブログなどで真実を発信して下さっています。

多数の方々がその情報は驚愕するほど正確なものであるとネット上でものべられています。(竹野内注:ここの部分、非常にありがたかったかも。。いつも嫌がらせ者にめちゃくちゃに言われてきたので。。。)

しかし一部の方々にとってはマズイ情報もあるのでしょうか?日々弾圧を受け竹野内さんに対する嫌がらせ行為は後を断ちません。

私がもっとも尊敬している真のジャーナリスト竹野内真理さんの存在を一人でも多くの方に知って欲しいと思います。(Piyopiyoさん本当にありがとうございます!!)

Blogs: http://savekidsjapan.blogspot.com http://koukaishitsumon.blogspot.jp http://takenouchimari.blogspot.jp
Video with English speech: http://maritakenouchiyoutube.blogspot.jp/2014/08/mari-takenouchi-speech-at-ny-academy-of.html
Twiter: http://twitter.com/#!/mariscontact
Facebook: http://www.facebook.com/mariscontact
竹野内真理(ジャーナリスト、翻訳家)
「人間と環境への低レベル放射能の脅威」と「低線量内部被曝の脅威」
原発閉鎖が子供を救う」(Sr90について)を共訳
内部被曝」(扶桑社新書)ー解説執筆
ブログ:http://savekidsjapan.blogspot.com http://koukaishitsumon.blogspot.jp http://takenouchimari.blogspot.jp  http://fukushimaworkerslist.blogspot.jp
ツイッターhttp://twitter.com/#!/mariscontact
フェイスブックhttp://www.facebook.com/mariscontact

何度も言っておりますが、真実を追及する方々が口封じなどの為に消されてしまうような世の中であってはなりません。竹野内さんへの弾圧はネット上だけの嫌がらせ行為だけでは止まらず、息子さんに不審者が近づいたり理不尽な告訴を受けたり、その存在を一人でも多くの方が知る事により、少しでもそれらの妨害や身の危険から守る事ができたら、竹野内さんからの貴重な発信ブログやファイル拡散のご協力をお願い致します。
命懸けで闘い続けて下さる真のジャーナリスト竹野内真理さんへどうかエールを!!
 

2021年(令和3年)89日  

被爆者代表  岡 信子

 

ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。

 

戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。

 

当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪の大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。

 

長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。

 

89日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身に怪我(けが)を負いました。

 

被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシュットウセヨ」との電報があり、新興善救護所へ動員されました。

 

看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見様見真似(みようみまね)で救護に当たりました。

 

3階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、23階はすぐにいっぱいとなりました。

 

亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。

 

解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりウジだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。

 

その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。

 

不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にウジがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡きがらや、瓦礫(がれき)で道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善へ戻ったりの繰り返しでした。

 

大怪我をした父を時津(とぎつ)国民学校でやっと捜すことができました。

 

「お父さん生きていた! 私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱きつきました。

 

父を捜す途中、両手でおなかから飛び出した内臓を抱えぼうぜんと立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首がちぎれた乳飲み子に最後のお乳を含ませようとする若い母親を見ました。

 

道ノ尾救護所では、小さい弟をおぶった男の子が「汽車の切符を買ってください」と声を掛けてきました。

 

「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を思い、胸が詰まりました。

 

今年1月に、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。核兵器廃絶への一人一人の小さな声が世界中の大きな声となり、若い世代の人たちがそれを受け継いでくれたからです。

 

今、私は大学から依頼を受けて「語り継ぐ被爆体験」の講演を行っています。

 

私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。

 

2021年(令和3年)89日  被爆者代表  岡 信子

 

 

Radio-Ecological Situation in Belarus before the Chernobyl Explosion


https://odb-office.eu/belarus-and-after-chernobyl-explosion-radio-ecological-demographic-and-medical-aspects

Excerpts from the article by Professor Professor Yury Bandazheusky
Radio-Ecological Situation in Belarus before the Chernobyl Explosion
Today, after more than 20 years after explosion at the Chernobyl power plant, people continue to experience the consequences of this accident. Many questions that came with this tragedy remain unanswered. Above all is the question of what will happen to the people who face radioactivity every day living their lives in polluted areas.
The aim of this article is to demonstrate some little-known, and possibly kept back on purpose, facts and proofs of medical affects on big groups of people who encounter radioactive agents. The information below sheds some light on health problems experienced by people living on the European territory of the former USSR.  
It is important to determine the first time when population of these territories was affected by radioactivity. When defining that, one has to keep in mind that there is so-called natural radioactivity which has existed long before the first human being appeared on Earth. But here is also another kind of radioactivity caused by nuclear arms tests and functioning of nuclear power plants.
Nuclear weapon tests started in 1945 and were very intensive in the period of 1945-1958 and in 1961-1962. Beginning with 1963 some countries began underground testing of nuclear weapons.
Most widespread and therefore dangerous for people’s health radioactive elements are caesium-137, zirconium-95, carbon-14, ruthenium-106, stroncium-90, cerium-144, tritium, and iodine-131. These elements come from nuclear weapons tests and work of nuclear power plants.
If looking at the tissue doses formation and radio-biological consequences of global fallouts, the leading element is isotope Cs-137, which mainly penetrates into the environment together with radioactive waste or nuclear blasts’ products. Main sources of the nuclear waste containing Cs-137 are nuclear reactors and factories refining exposed to rays fuel. The most intense pollution of the environment with Cs-137 occurs through explosions on nuclear power plants, one of which happened in Chernobyl in 1986.
The level of Cs-137 concentration in human body depends on the level of pollution and thereof on the quality of food consumed by the population, the nutrition structure, age and sex distinctive features [18].
In the former USSR Cs-137 was first registered in 1963. Researchers of the Institute for Biophysics of the USSR Healthcare Ministry made more than 1000 tests of cow milk in different districts of Palessie (territory of modern southern Belarus and part of Ukraine) [18]. Based on this research they developed a so-called “milk-caesium” map showing that the strongest concentration of Cs-137 at that time was in Gomel region of Belarus. To compare, on the territory of Ukraine, numbers reflecting radio-caesium in cow milk were much lower. As a result, annual dosage received by the population of Belarus in those years was 2,5 higher than of the Ukrainians. Analyzing yearly data about the Cs-137 fallouts and its presence in food (cow milk) and in human bodies , it can be concluded that 1963 was the year of maximal fallouts of the given element on the territory of Belarus before the Chernobyl explosion.
Radio-ecologic Situation in Belarus after Chernobyl Explosion in 1986
According to conclusions of the USSR principal specialists in nuclear engineering [24], the explosion at Chernobyl power plant occurred at the end of an active working zone of the reactor containing the maximum quantity of radioactive products. These elements polluted large parts of territories of Belarus, Ukraine, Russia and reached some other countries.
The most badly affected areas of Belarus were Gomel and Mahileu regions. Almost every district of these two voblasts (region, Belarusian—ODB) was heavily polluted by radioactive elements. It is important to say that the compulsory evacuation to the so-called “clean” from Cs-137 territories was ineffective because the soil there was polluted with plutonium 238, 239, 240 (more than 3,7 kBq/m²).
Keeping in mind that contamination of Gomel and Brest regions was discovered long before the Chernobyl explosion [18], it is possible that similar situation could have been observed in Grodno and Minsk regions given the high level of Cs-137 contamination registered there in 1990s. This fact leads to conclusions that are fully contradictory to forecasts given by some researchers who calculated collective doses of exposure to radiation for the population based only on results of the 1986 accident. Information about previous years’ pollution was kept secret.
Once thrown into the atmosphere, radioactive elements continue to penetrate into organisms of people and animals through natural ways. Iodine-131 gets into human body with food and air, unlike caesium-137 and stroncium-90, which can affect human body predominately through contaminated nutrition. Products of animal and plant origin from the polluted areas are the main sources of radio-nuclides in human bodies.
During the first few years after Chernobyl no measurement of radioactive caesium doses within large groups of population was conducted. All the estimates were based on territory pollution rates and collective doses of radiation. Possibility to conduct mass screenings of the population arose only in 1992 when a special device invented at the Ukrainian Academy of Sciences was delivered to Gomel voblast thanks to the active support of the BelarusianEngineeringAcademy.
Demographic Indexes and Population Health Conditions before and after 1986
Demographic situation in Belarus before radioactive caesium pollution of 1960s was a favourable one. Even during the hard after-war period (after 1945) the birth rate was higher than the death rate (the natural growth of the population in Belarus reached 13,7%  in 1940 and 11,2 % in 1945). In 1960 Belarus experienced the maximum natural growth of population in the after-war period – 17,8 %. However, beginning with 1965, constant decline in birth rate and an increase in deaths can be seen, which resulted in only 5,9 % of natural growth in 1985.  
After the explosion at the nuclear power plant on 26 April, 1986 the situation became even worse and in 1993 the death rate exceeded the birth rate. Progressive decline in birth rate with 9,3 % and the growth in death rates by 14,2 % led to the situation when the natural growth reached – 4,9 % [16] which could no longer be called a growth but a decline.( - 5,9 % in 2002, - 5,3 % in 2005) The death rates grew up to 32,7 % (from 10,7 to 14,2 per 1000 people) in the period of 1990-1999.
Belarus also witnessed permanent deterioration of people’s health condition. In the period from 1990 to 1999 the primary illness rate grew by 43 % [32] and was connected mostly to blood circulation disorders and neoplasm (cancerous growths)[2]. The blood circulation disorders enjoyed steady growth in the last three decades. Since 1980 to 1994 it grew 5,5 times while general sickness rate increased 4,2 times [17]. The general sickness rate is most intensively increasing in the polluted areas and has the highest index in Gomel voblast since 1988.
It is the blood circulation disorders that bear major responsibility for people’s death in Belarus. In 1997 it took 50,4 % [33] of lives, in 1998 – 51,9 % [34], 1999 – 52,9 % [35]. In the period of time since 1989 until 1998 the number of death cases connected to blood circulation disorders grew by 24 %. [34]
 During the last three decades there has been a permanent increase in cancer with Gomel voblast as a leading region [1]. Thyroid cancer has become the world community’s concern as it dramatically increased within several years after the Chernobyl catastrophe. Thyroid cancer cases reached 9,2 cases for 100.000 inBelarus in 1997 that constitutes 513 % if compared to 1986 [13].
The general rate of thyroid cancer cases diagnosed in Belarus in 1998 2-2,5 times exceed that of 1990. Among teenagers under 19 years old it grew 25 times in 1990-1998. It also grew more than 4 times among adults. Total number of thyroid cancer cases diagnosed between 1986 and 1999 was 6030, with 1083 of them children and teenagers suffering from the disease [21].
Gomel region has the largest number of thyroid cancer cases in the country--around 54 % of the total in Belarus. Despite the leading role of I-131 in thyroid cancer cases scientists discovered the link between the disease and Cs-137 pollution [25].


To be continued
Translated by the Office for a Democratic Belarus
Photo by the Office for a Democratic Belarus
 The Works Cited
1.Анализ заболеваемости населения, пострадавшего вследствие катастрофы на ЧАЭС, 1993 год. Минск, 1994. - 156с.
2.Анализ заболевамости и смертности населения, пострадавшего вследствие катастрофы на ЧАЭС, за 1999 год/ Под редакцией профессора          Н.Н.Пилипцевича. - Минск: БЕЛЦМТ, 2000. - 58с.
3.Антонов В.П. Уроки Чернобыля: радиация, жизнь, здоровье. - Киев: Общество "Знание" УССР, 1989. - 112 с.          
4.Бандажевский Ю.И. Патофизиология инкорпорированного радиоактивного излучения. - Гомель, Гомельский государственный медицинский институт, 1997. - 104с.
5.Бандажевский Ю.И. Патология инкорпорированного радиоактивного излучения. - Минск: Белорусский государственный технологический университет, 1999. - 136с.
6.Бандажевский Ю.И. Радиоцезий и сердце (патофизиологические аспекты). - Минск:"Белрад", 2001. - 62с.
7.Бандажевский Ю.И. Патологические процессы в организме при инкорпорации радионуклидов. - Минск:"Белрад", 2002. -142с.
8.Bandazhevsky Yu. I. Cs-137 incorporation in children's organs. // Swiss. Med. Weekly 133:p. 488-490, 2003.
9.Бандажевский Ю.И., Бандажевская Г.С. Влияние радиоактивных элементов, попавших в окружающую среду в результате аварии на ЧАЭС на состояние миокарда - В книге: Клинико-экспериментальные аспекты влияния инкорпорированных радионуклидов на организм/Бандажевский Ю.И., Лелевич В.В., Стрелко В.В. и др.; Под редакцией Ю.И. Бандажевского, В.В.Лелевича. - Гомель, 1995. - С 48-73.
10.Бандажевский Ю.И., Матюхина Т.Г., Зеленко Г.А. Ультраструктурный ответ желудочковых кардиомиоцитов на поступление в организм радиоцезия / В сборнике - Морфофункциональные аспекты действия радионуклидов на процессы антенатального и постнатального развития. - Гомель: Гомельский государственный медицинский институт, 1998. - 98 с.
11.Bandajevsky Yu. I., Bandajevskaya G. Cardimyopathies au cesium 137// CARDINALE (Paris), XV : № 8, p. 40-42; Octobre 2003.
12.Бронштейн М.Э. Рак щитовидной железы /Проблемы эндокринологии. - 1997Б Том 43. - С. 33-37.
13.Динамика онкологической заболеваемости сельского населения Гомельской области после аварии  на Чернобыльской АЭС/ Информационный  материал - Национальнач комиссия Беларуси по радиационной защите, 1998.
14.Журавлев В.Ф. Токсикология  радиоактивных веществ. - 2-е издание, переработанное и дополненное. - Москва: Энергоатомиздат, 1990. - 336с.
15.Запольская Н.А., Федорова А.В., Лаврентьев Л.Н. и др. Сравнительная оценка токсического действия на организм некоторых радионуклидов//Радиационная гигена. Выпуск 5. Сборник научных трудов по радиационной гигиене. Под редакцией профессора П.В.Рамзаева. Ленинград, 1975, С. 146-153.
16.Здравоохранение в Республике Беларусь:Официальный статистический сборник. - Минск: Белорусский центр научной медицинской информации Министерства Здравоохранения Республики Беларусь, 2000. - 386с.
17.Манак Н.А., Русецкая В.Г., Лазюк Д.Г. Анализ заболеваемости населения Республики Беларусь болезнями системы кровообращения / Медико-биологические аспекты аварии на Чернобыльской АЭС. 1996, -№1. - С. 24.
18.Марей А.Н., Бархударов Р.М., Новикова Н.Я. Глобальные выпадения Cs- 137 и человек. Москва, Атомиздат, 1974. - 168с.
19.Радиоактивность и пища человека. / Под общей ред. Р.Расселла. Перевод с английского. Под редакцией академика ВАСХНИЛ В.М. Ключевского. Атомиздат, 1971. - 376с.
20.Казаков В.С./ Радиоэкологическая ситуация в Белоруссии после Чернобыльской аварии, медико-биологические последствия и научное обоснование мероприятий по радиационной защите населения/ Доклад на Республиканской конференции.  12-14 марта 1991 года.
21.Ребеко В.Я. Проблемы рака щитовидной железы в постчернобыльский период/Проблемы ликвидации в Республике Беларусь последствий катастрофы нав Чернобыльской АЭС. Доклад на парламентских слушаниях Палаты представителей и Совета Республики Национального  Собрания Республики Беларусь 21 апреля 1999 года //Министерство по чрезвычайтым ситуациям Республики Беларусь. Комитет по проблемам последствий катастрофы на Чернобыльской АЭС; под редакцией профессора И.В.Ролевича. Барановичи:укрупненная типография, 1999. - 116 с.
22.Содержания стронция-90  и цезия-137 в основных продуктах питания населения Белоруссии. Русяев А.П., Тернов В.И., Гурская Н.В. и др. / В сборнике: Гигиена труда и охрана здоровья населения. Минск, 1974. - С. 22-26.
23.Тернов В.И., Гурская Н.В. Выпадения радиоактивных осадков на территории г. Минска в 1963-1970 гг. / В сборнике: Гигиента труда и охрана здоровья населения. Минск, 1974. - С. 20-22.
24. Чернобыльская катастрофа: Причины и последствия (Экспертное заключение). В 4-х частях. Часть 3. Последствия катастрофы на Чернобыльской АЭС для Республики Беларусь / Под редакцией В.Б. Нестеренко/ Международное сообщество восстановления среды обитания и безопасного проживания человека "СЭНМУРВ" Объединенный экспертный комитет (Минск-Москва-Киев). - Миск:"Скарына", 1992. - 207с.
25.Щитовидная железа у детей: последствия Чернобыля / Под редакцией профессора Л.Н. Астаховой. - Минск, 1996. - 216с.
26.Preston D.L.,Shimizu Y., Pierce D.A., Suyama A. and Mabuchi K. Studies of mortality of atomic bomb survivors. Report 13 : solid cancer and noncancer disease mortality: 1950-1997 // Radiat. Res. - 2003. - Vol. 160. - P. 381-407.
27.Yamada M., Wong F., Fujiwara S., Akahoshi M. and Suzuki G. Noncancer disease incidence in atomic bomb survivors : 1958-1998. // Radiat. Res. - 2004. - Vol. 161. - P. 622-632.
28.Wong F.L., Yamada M., Sasaki H. at al. Noncancer disease in the atomic bomb survivors: 1958-1986 // Radiat. Res. - 1994. - Vol. 135. - P. 418-430.
29.Лазюк Г.И., Румянцева Н.В., Политыко А.Д., Егорова Т.М. Анализ унаследованных de novo структурных перестроек хромосом как один из методов оценки воздействия радионуклидов на наследственные структуры человека / Достижения медицинской науки Беларуси. Выпуск 6.  - 2001. 
30.Наумчик И.В., Румянцева Н.В., Лазюк Г.И. Динамика частоты некоторых врожденных пороков развития в Беларуси /Достижения медицинской науки Беларуси. Выпуск 6. - 2001.
31.Бандажевский Ю.И. Радиоцезий и внутриутробное развитие зародыша. Мн:"Белрад". - 54с.
32.Пилипцевич Н.Н., Ломать Л.Н., Гальбурт Г.Н. Основные показатели здоровья населения Беларуси в 1990-е гг./ Достижения медицинской науки Беларуси. Выпуск 6. - 2001.
33.Пилипцевич Н.Н., Рогачева Т.А., Трофимов Н.М. и др. Состояние здоровья населения и медицинской помощи в  Беларуси/Достижения медицинской науки Беларуси. Выпуск 4. - 1999.
34.Манак Н.А., Русецкая В.Г. Динамика уровней и структуры смертности населения Республики Беларусь вследствие болезней системы кровообращения за 10 лет (с 1989 г. по 1998 г.) /Достижения медицинской науки Беларуси, Выпуск 5. - 2000.
35.Манак Н.А., Русецкая В.Г. Динамика показателей заболеваемости болезнями системы кровообращения в Республике Беларусь за 10 лет/ Достижения медицинской науки Беларуси. Выпуск 6. - 2001.
36.Клинико-экспериментальные аспекты влияния инкорпорированных радионуклидов на организм / Бандажевский Ю.И., Лелевич В.В..Стрелко В.В. и др.; Под  редакцией  Ю.И. Бандажевского, В.В. Лелевича. - Гомель, 1995. - 173с.
37.Структурно-функциональные эффекты инкорпорированных  в организм радионуклидов / Под редакцией Ю.И. Бандажевского. - Гомель, 1997. - 152с.
38.Мацюк Я.Р., Абакумов В.З., Троян Э.И. и др. Особенности становления структуры и функции семенников у потомства при воздействии инкорпорированных радионуклидов/ Достижения медицинской науки Беларуси. Выпуск 2. - 1997.
39.Мацюк Я.Р., Троян Э.И., Слободская Н.С., Кравчук Р.И. Становление мужской репродуктивной системы у потомства 1 и 2 поколений при воздействии инкорпорирумых с пищей радионуклидов/ Достижения медицинской науки Беларуси. Выпуск 3. - 1998.
40.Мацюк Я.Р., Гудинович С.Я., Слободская Н.С., Михальчук Е.Ч. и др. Нарушения инкорпорируемыми радионуклидами становления у потомства структурно-метаболических и репродуктивных свойств женской половой системы и их профилактика /Достижения медицинской науки Беларуси. Выпуск 6. - 2001.
41.Ломать Л.Н., Гальбурт Г.Н., Кулинкина В.В., Монастырская П.Л. Анализ заболеваемости и смертности детского населения различных регионов Беларуси/Достижения медицинской науки Беларуси.          Выпуск 3. - 1998.
42.Дуда В.И., Дуда И.В., Сушко В.Я., Кулага О.К. Особенности полового созревания девочек, проживающих на территориях с повышенными уровнями радиации / Достижения медицинской науки Беларуси. Выпуск 3. - 1998.
43.Политыко А.Д., Егорова Т.М. Возможности цитогенетической базы данных в оценке тенденций и данамики повреждений хромосомного аппарата у детского населения загрязненных радионуклидами зон Беларуси/Достижения медицинской науки Беларуси. Выпуск 6. - 2001.
44. Бандажевский Ю.И., Введенский Д.В., Лакудас Е.Л. Система мать-плацента-плод в условиях инкорпорации радионуклидов /В книге: Структурно-функциональные эффекты инкорпорированных в организм радионуклидов. Под редакцией  профессора Ю.И.Бандажевского. - Гомель, - 1997. - С.119-141.


Professor Bandazheusky is State Doctor in Scientific Medicine, specialized in Anatomo-pathology, State Doctor in Scientific Medicine, specialized in Physio-pathology, Professor of Scientific Medicine, specialized in Physio-pathology, Rector of the State Institute of Medicine, Gomel, Belarus (1990-1999)
Named Honourable Citizen of the following cities: Anor, Auxerre, Bailleul, Besançon, Château-Chinon, Clermont-Ferrand, Marseille, Montmélian, Mouans-Sartoux, Paris, Rezé, Saint Denis, Saint-Perreux, Siorac en Périgord and the region Nord Pas de Calais.
Holder of the European Liberty Passport N° 25 since 2001
Recognized a “Prisoner of Opinion” by Amnesty International in 2001.
ACADEMIC DEGREES
2004 Honorary Doctor from the MediterraneanUniversity
2000 Award of the Medal of Hippocrates, from the IPPNW of Paris, for work in
radiological medicine and human radio-biology
1999 International American Award “The Sun, the Golden Emblem” for scientific work
in Radio-pathology
1999 The Albert Schweizer Golden Star Award
1998 Albert Schweizer Gold Medal Award For unique contribution to the development
of Medicine and Humanism
1998 The International Academy of Gerontology, active member
1997 The Polish Academy of Medicine, appointed Honorary Member
1997 The BelarusAcademy of Medicine, Correspondent
1996 The New York Academy of Science, Active member
1993 The Belarus Academy of Engineers, appointed member
1991 Professor of Scientific Medicine, specializing in Physio-pathology
1990 Rector of the State Institute of Medicine of Gomel, Chair in Pathology

Bandazhevsky2004

"ENFANTS DE TCHERNOBYL BELARUS"
20 rue Principale, 68480 Biederthal (France)
 
Professor Youri Bandazhevsky
Relegation   and scientific research

 
Visit to Belarus
 
30 June – 7 July 2004-07-25
 

Dear Friends,
 We will be leaving again, this evening for a week. Knowing how much you are all looking forward to news about Youri and Galina, before we go, we are sending you our first impressions of our visit to Belarus.
The letter to association members will be put in the post as soon as we return with the photos that we took while we are in Belarus.
 With all our best wishes,
Michel and Solange.
 
Biederthal  July 9 2004-07-20
 

 
First impressions of our visit to Belarus from June 30 – July 7 2004
 1)    Professor Vassili NESTERENKO is waiting to greet us at Minsk airport.  We go to see the Swiss attaché, M. Mathias Weingart, who is leaving the next day for Berne (DEZA[1]).   On behalf of PSR / IPPNW Switzerland we raise the issues concerning Professor Bandajevsky, who, to all appearances, is not yet, in the eyes of the foreign affairs department, a political prisoner; the DEZA is waiting for further information.
We discuss the aid that the DEZA is providing for Nesterenko within the framework of the CORE programme. (French) .  This consists of accumulating measurements of Cs137 levels in children over a 3 year period.   I (Michel Fernex)  transmit  to Mr Weingart my  brief explaining why pectin must be distributed to contaminated children (see annexe) bearing in mind the code of medical ethics forbids carrying out a diagnosis of children  unattended by the provision of treatment should one exist:   in cases of high  Cs 137 contamination  levels pectin is indicated.  I remind M. Weingart that all aid to Belarus coming from DEZA is totally dependent on his appraisal of the situation.
2)  The visit to the French Ambassador together with Vassili Nesterenko is cordial.  We show him the Bandazhevsky file prepared by the Bandazhevsky committee – the Ambassador was already familiar with most of the documents and had even gone so far as to make copies of them for Youri.  The Ambassador talks of his firm and steadfast support for the total rehabilitation - both scientific and civil - of Professor Bandazhevsky on each occasion that he is in contact with the Belarus authorities.  He also mentions that in a public gesture of concrete support to the penal authorities that he visited Bandazhevsky, with his EU colleagues immediately after his relegation.
When we arrive in Minsk there are two pilots of the Normandy-Niemen Brigade, on an official visit to the Embassy in full dress, parade dress with their French and Russian medals.  It was on the request of General De Gaulle that they fought along side Soviet troops from 1942 – 1945.  In the evening they are interviewed on the television for the commemoration of the 60th anniversary of the liberation of Belarus.
The Ambassador questions me on my objections to the CORE programmes.  I remind him of  the origin of the programme  (EDF, CEA,  AREVA[2]).  The aim of the ETHOS programme was to find some solution to Chernobyl problems, but the health situation at the end of the programme, as presented in Stoline in 2001 is disastrous.  CORE refuses to take into account the failure of ETHOS and its causes.  I talk in length to him about pectin and give him a copy of my written brief on the question.  "Médecins sans Frontiers" are setting up a small scale project focussing on pregnant women within the frame work of the CORE programme.   The possibility of using pectin was mentioned but this would entail following a protocol.  In order to establish the beneficial effect of pectin for pregnant women it would be necessary to determine before the start of the treatment the level of radioactive contamination of the mother, of the placenta and of the child at birth.
 3)     We visit the new Belrad building site.  Eight labourers are employed, we talk to the
 
the foreman.  The walls of the ground floor – excellent thermal isolation, width 57 cm, are going up fast.  Five days later the window lintels for this floor are in place.  The whole of the wing accommodating the pectin production is finished.  It seems reasonable to say that the whole of the building will be roofed and fitted with doors and windows by October 2004.
 For the first and last days of our visit our accommodation is in Nesterenko's wood-built secondary residence at 10 minutes' from the building site.
    4)    At Belrad we meet the organisers of the projects "Villages disparus" including Alexei  Nesterenko, M. Babenko and others.  Nesterenko hands over to Michel (Fernex) the official authorisation issued by the Ukrainian Ministry of Health concerning pectin and with the statutory procedure for treatment of contaminated children.   This official document is of the utmost importance for determining the course of future negotiations in Belarus and in the West (TACIS etc.)
Unfortunately, 24 hours later we learn that that during the night, Alexei, who had been fit and well the day before, is suffering from an Ileus   and must be operated on  urgently.  (After a temporary improvement, a second operation was required on June 7, the day of our departure.)  Hopefully, in the coming weeks everything will return to normal.
5)       Visit to Youri Bandajevsky condemned to "relegation" to the village of Peskovtsy on the banks of the Nemen River.
Galina Bandajevsky accompanies us to Minsk.  When we arrive we find Youri looking well, physically as fit as he was in 1998 (during our visit to Gomel) waiting for us outside his pretty little wooden house.  After greetings, Galina goes off at once to see the Kolkhoz director Victor Genrikhovitch to make sure that there is no future danger of Youri being transferred to another detention centre in Belarus as a result of an unauthorised visit by a journalist of a provincial newspaper 10 days ago.
A transfer of this sort would be all the worse as Youri has just smartened up and made fit to live in the old abandoned log hut put at this disposal.  That is where is going to receive his family tomorrow.  He has patched up and repainted three rooms in white.  A wood-fuelled heater is in working order.  He has put up some new partitions.  It was Nesterenko who supplied the furniture, the crockery, the fridge, the gas cooker and everything else with the help of the donors of "Enfants de Tchernobyl Bélarus"
The well with drinking water is only 120 meters away.  The public lavatory is a bit further.  There is a garden with a cherry tree laden with magnificent fruit.  Youri has cooked us delicious "borscht".  We say to him, "If Galina is spending so much time talking to the director it is a sign that things are going well". Two hours' later a smiling Galina appears.  Youri breathes a sigh of relief.  The discussion has in fact gone so well that the district president, Valentina Tadeuchevna, invites us all to a meal to celebrate in three days' time with all Youri's family: his wife, two daughters, her grand child, her brother in law Sacha Slesar and his wife Nina as well as Vladimir Nesterenko, our guide and driver.
Next to Youri's house there is an old disused concrete building.  Youri talks of setting up a laboratory and raising laboratory animals.  At first the idea seems a bit far-fetched.  But the photos that Youri shows us later of his improvised laboratory which he installed in 2000 in his tiny Gomel flat, with the kitchen serving as examination room for the Cs137 irradiated animals, leads one to think that it might be feasible and a way of making scientifically productive the six months that Youri has to spend in this, despite everything, oppressive isolation.   This would mean that he would have to refurbish the neglected premises.
In so far as Youri's health is concerned, any activity of this sort could be a means of physical and intellectual well-being.  Youri has, since his childhood, always been involved in experimental research.   His thesis is based on research concerning reproduction.  Problems of genomic instability which have since come to light show the importance of ensuring a follow up over several generations of animals.
The time is not yet ripe to discuss Youri's long term, and by no means certain, future when he will be able to live in other parts of the country.   The judicial position at the moment is that Youri is debarred from working either in a state institution or abroad.  However, corresponding and cooperation with foreign institutes is not excluded.  Youri is extremely grateful to the CRIIRAD for having sent a "Notebook computer".   His brother, Sacha Slesar is a computer specialist in Minsk and will be able to help him with his correspondents as, for the moment, Youri is not allowed access to internet.
To live with concrete feasible projects, such as the study that he carried out in Gomel while he was waiting for his trial, is an absolute necessity for Youri.  It is not good for someone to be without such projects as one can loose one's grip on reality.  Youri makes no mention of going aboard as he knows that, legally, it is out of the question, and besides, he does not want to leave his country for any length of time.
Without anything concrete to do, without a project Youri would have good grounds for becoming discouraged.  What we have got to do is, despite all the obstacles, try and hold out a helping hand. Unfortunately, we haven’t the time to discuss the projects in detail, as any protocol needs to be thought through meticulously and drawn up with care.  Youri is going to try and note down his ideas and send them to us.
Understandably, talking about the long term future worries Youri, as no one has any answers to the questions that are posed today.  There has been already been, and there will in the future, moments of difficulty and "conflicts" that will have to be straightened out.  Youri who has a strong personality and his wife will be able to cope with these.    At the moment, Galina is working at Belrad in her own field : paediatrics and clinical cardiology.  She is studying the beneficial effect of Pectin and vitamins on children in the highly contaminated "forgotten villages", within the framework of the Belrad projects.  She is now able to see her husband regularly and speak to him on the phone each day
 
6)      Life in a relegation centre.
The arrival of Youri's family who will find place enough to sleep in Youri's house, was postponed by a couple of days because Olga's daughter fell ill, but in fact, it was not a bad thing that the couple should be alone for a bit.
The district President, Valentina Tadeuchevna, provided us and Vladimir Nesterenko, our guide and driver, with lodgings in the village "Communist Party House" built on a cliff overlooking the Neman River.  The building was still decorated to the glory of Lenin, Marx and Engels and the Tsar Romanov dynasty from Peter the Great to Nicolas 2 (poster dated 1991).  There was a hammer and sickle carved into the wood of the door.  In the garden memorial stones commemorated the tombs of martyrs who died during the occupation;
At nine o'clock each morning we have breakfast at the Bandazhevsky's with something hot cooked by Galina.  This is followed by group discussions.   From time to time, we watch the television which for 3 days non-stop sings praise to national glory, in commemoration of the 60th anniversary of the liberation : parades, sports clubs, armoured tanks, majorettes, low flying planes, fireworks and above all ovations and speeches.  Neither Putin nor Kouchma have accepted the invitation.  It all brings to mind the 14th July parade in Paris, minus the Eiffel tower and the "Patrouille de France air formation".
We have one to one talks with Youri until lunch is served at 2 p.m.:  delicious local cooking prepared by Galina.  The language used is French which means resorting to the dictionary from time to time.  Youri still tires quickly.
Towards half past four we leave the family to themselves and go for walks along the river.  Vladimir goes back to the village where he shares the meal that Galina has prepared but we prefer to picnic in the glorious countryside beside the Neman.
On the last day Sacha, Galina's brother, a computer expert whom Youri likes a lot, his wife, Nina the eldest daughter Olga and baby Katia arrive.  Youri and Galina's youngest daughter, Natasha wanted to return with us the following day, but in the end, after spending the evening with her parents decides to stay for a week with the family.
President Valentina Tadeuchevna invites us all to the gardens of the Party House, where we are lodging, to a meal – a festive dinner.  It is the President who brings and has prepared (fish soup and grilled fish) two magnificent bream caught in the Neman.  With the help of Vladimir was set the tables and benches beneath the enormous porch roof as it looks as if there could be a storm.  Exceptionally, and for the only occasion, there was a bottle of  Ukraine champagne and a small bottle of Vodka (0.5 l) ( bought by Michel that morning at the central store and which remains two thirds full) to accompany the meal and allow us all with Russian toasts to express our mutual gratitude.
Lots of washing up to be done for Olga and Solange.   That evening, Vladimir Nesterenko didn't go back to the village for supper because there was more than enough left-overs :  fish, vegetables, potatoes bread and cheese...  We went off for our usual picnic.
The next day we tidy up the house, take leave of the authorities , visit Valentina Tadeuchevna in her office as well as Viktor Genrikhovitch, the Kolkhoz director (4500 hectares of  land and cereals, 200 farm hands, 1500 stock ) and exchange heart-felt good byes with the Bandazhevsky family...

Résumé
It appears to us that at the moment Youri is in the best possible natural environment,  contamination free, lodged in a pretty little traditional wood house which he has done up and in which he can receive his family.   In our opinion the administrative authorities (Valentina Tadeuchevna) and the women working on the kolkhoz are as kind, compassionate, generous and open as is possible given the judicial and administrative situation over which they have no control.  Just as we in our town halls are greeted with a full size portrait of Jacques Chirac, in Valentina's bureau it is quite obviously the Belarusian president who beams down on the visitors.
 There is an extremely well stocked shop for such a small village just opposite Youri's house (doubtless because of the large Kolkhoz and a relatively large school, at the moment on vacation) in which one can find local sausage, milk and dairy products (kefir, yoghurts etc.) all the usual stock found in a grocer's (rice, pasta, lentils, oil, cucumbers, gherkins, coffee, tea, etc;) tinned food, beverages, crockery, stationery etc.
 We get to know the manageress of the store, Macha, a kindly, smiling businesslike young  woman with whom we drink some Belarus champagne offered by the district president, Valentina Tadeuchevna in the back office of the shop.   Youri jokes with Macha in Russian, saying that once Galina has left for Minsk and Valentina for her holidays in the Crimea she will be the only woman left in the village ….
 During our stay, Youri and Galina keep on reminding us to thank all the friends who write, send contributions, propose honorary citizenship, awards, university distinctions, for the magnificent file of the Bandajevsky committee, the CRIIRAD notebook, the financial support  (600 $ monthly) which has been provided by our association since 2001 and so on.    All these gestures help Youri and Galina feel a strong and warm solidarity.  Youri is also delighted with the subscriptions to the scientific reviews, "Nature" and others.
 Although his French is good, Youri still gets tired quickly during discussions He has jotted down a in a school exercise book a list of common French expressions and vocabulary to prepare for our visit.  We do our best to be as unobtrusive as possible, as our visit happens to coincide with the first "semi-free" contacts with his wife, his two daughters and his grand-daughter who he had not yet seen.  This discretion on our part is all the easier as we live outside the village and that we decided to take our evening meals on our own with our own provisions: bread, butter, cheese and milk.

 Last days at Minsk.  
A long early morning walk thought the forest from Nesterenko's house to the large nearby lake.  A last visit and photos of the progress at the Belrad building site.  A meeting with Rose Goncharova, to talk about her research in the genetics of the field mouse population in the Chernobyl region and of future publications.
The next day, Solange signs the "Belrad – Enfants de Tchernobyl" contracts.  Vassili is busy for three days with the "SAGE"[3] meeting for which he has assumed responsibility for the writing of the chapter on "Radioprotection".   Unfortunately, Alexei who was to represent Belrad is in hospital.  A meal with Ilsa and a few minutes with Vassili – everyone is worried.  It is in this climate of deep concern, just when Alexei is being operated that Vladimir Nesterenko drives us to the airport and we board the flight for Vienna.  We have heard since that Alexei's temperature has gone down and the second operation has been successful.  He is still in the intensive care ward.
 (Unfortunately on July 10 a third operation had to be carried out because of a perforation of the intestine and peritonitis.  We were all fearing the worst – the surgeon couldn't guarantee a successful outcome.   At the present time things have stabilised with the help of heavy medication: antibiotics and immunoglobin perfusions.   Despite the 3 operations in less than 10 days and the septic shock Alexei's young organism is standing up to the shock.   The situation is serious and will take time to be overcome – Wladimir Tchertkoff)


9 July at 12 a.m.    Michel and Solange Fernex.
                                       


 
 

 
 
 
 
 

 
[1]    DEZA  -  Direcktion für Entwicklung und Zusammenarbeit  /  Swiss agency for development an cooperation
 [2]     EDF  -  Electricté de France,  CEA  -  Commisariat à l'energie atomique  AREVA  -  The AREVA group, worldwide leader in energy  (nuclear power and electricity transmission & distribution)
[3] SAGE  -  Stratégies pour le développement d'une culture de protection radiologique