『原発怖いよ!思わず世界をかけめぐる (あごら286号)』2003年竹野内真理に加筆修正したものです。
Dr. Mary Olson and Mari Takenouchi
1999年、「コンピュータ2000年問題」に関する講演会で、実験中に被曝した米国人女性が原発に反対する話をしました。 「原発で大事故が起きたら、この世の生きとし生けるもの、世代を超えた生命の輪が断ち切られてしまう」。この時私は自分の知らなかった脅威の存在に心底ショックを受けました。その講演記録を翻訳しながら、自分でも驚くほど涙が止まりませんでした。
Mary Olson博士による原発とコンピュータ問題の講演録
https://takenouchimari.blogspot.com/2021/02/possible-nuclear-hydrogen-explosion.html
そして気がついたら無我夢中で行動していました。大まじめに、「原発問題は、市民団体の枠を超えて世に知らしめ、あらゆる階層の人が当然取り組まねばならない問題」と、原発を持つ世界各国の大使館に資料を送り、関連する会社や機関に電話をかけ、ビルゲイツやマイケル・ジャクソン、ビートたけしを含む有名人に手紙を送り(滑稽でしょうけど)、知り合いのつてで当時の小渕首相の秘書や内閣官房危機管理官にまで原発の危険性、特に(福島事故で起きた)電源喪失した場合の危険性について話に行きました。
「馬鹿言うんじゃない!日本の原子力の技術は高く、絶対に安全」というようなお返事を日本政府の危機管理官から一か月ちょっとでJCO事故が起きたことを記憶しております。
JCO事故が起きる直前の8月、「日本国内ではらちがあかない、脱原発を模索するドイツなどの欧州諸国に直接働きかけてはどうか」と、知り合いになった活動家に勧められ、欧州に行くことになりました。英国、オランダ、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、フランスの七か国を訪れて、各地で様々な個人やNGOなどの団体に連絡を取りました。
最終的には欧州議会に行くことになり、そこで2000年問題に際して原子力発電所と化学工場について厳戒態勢を敷くという決議案を書いてもらい、その決議案を持って各政党をひとりでロビー活動して回り、なんと決議案は満場一致で2か月後に採択されました。思えばその頃が私のプライムタイムだったのでしょう。よくやれたなと思っています。
本来は、何人かでチームを組んで7か国くらいをめぐるという計画でしたが、ふたを開けたら、最終国のドイツにしばらくしてから数人が来てくれるまでは、誰も一緒に来ようと動かず、2000年問題が来るまで時間も限られているので、身銭を切って、ひとり日本を飛び出し、一か月で上記7か国廻りました。
携帯もない時代、衛生を使った携帯レンタルと使用料(電話とパソコン通信費含む)だけで40万かかったのを覚えています。ハイテク音痴の私が当時はめいっぱい入手できるテクノロジーを必死で駆使しました。その他、航空費、ホテル代、雑費合わせて節約しても100万かかりましたが、なんとメーリングリストでカンパを募ったところ渡航中に11万も集まりました。。いずれにせよ当時、すべての貯金の額200万のところ、半分使ったのはかなりの出費でした。
(ところでホテル滞在は、なるべく知り合いとなった市民活動家のアパートを渡り歩いてしまいました。ヨーロッパでは「スクワッター」と言って収入の少ない若者が空きマンションにただで住めるという制度がありました。日本も空き家や空き部屋を利用したこの制度を見習うべきです。また外国にあるShared Houseという制度も私は好きです。私と息子も信頼のおける人とShared House がしたいなあ。。できたら畑付きのおうちがいい!)
オランダでは、現地の活動家と共にNATOの軍事基地にある核兵器に反対する抗議行動に参加し、面白がりながら金網を乗り越えていたら、みんな仲良くプラスティックの手錠をかけられ、逮捕されました。もちろん逮捕されるなんて生まれて初めての経験ですが、何も悪いことはしていないという気持ちでまったく気になりませんでした。
直後にNATO軍の拘置所に2時間くらい入れられました。でも悪い扱いではなく、そこでは軍の方が水のボトルも配ってくれました。ただ、カメラがとられてしまったことは非常に残念でした。貴重な写真もたくさんあったのですが、NATO軍の基地の写真も金網越しに取っていたからでしょう。うかつでした。帰る際に返してくれと懇願しましたが、返してもらえませんでした。
NATOの拘置所内では、面白いことに、車座になって皆が座っていた中で、自然と一人一人が立ち上がり、演説をしだしました。日本にはない光景でしょう。私も立って、皆の前で英語で演説しました。
「日本は広島と長崎を経験し、放射能被害の恐ろしさを知っている。しかし、核兵器だけでなく、より放射能を大量に含んでいる原発も、同時に皆で反対して世界の原発を止めるべきです。」と、生まれて初めて政治的な話を人前で自然にしていました。このように私は世界の原発を止めたい、という決意表明をNATO軍の拘置所の中ですることになり、その思いは現在も続いています。
その後、ベルギーのマザーアースの活動家に会えたことはラッキーでした。彼は私を欧州議会の緑の党の政治家やエネルギーの専門家であるアイルランド人のGrattan Healy氏を紹介してくれ、Healy氏は私の持参した資料を、なんとたった二日間で決議案にしてくれたのです。面白いことに、この人も実は原発と2000年問題をたいそう気にしており、「なぜ欧州議会の誰一人として騒がないのか不思議だった。自分は家族と一緒に危険な時期に欧州を立ち、離れ小島で休暇を取るつもりだ」と言い、私がこの資料を持ってけしかけたことを歓迎してくれたのです。
この時ほど形式ばかり重んじる日本の官僚的なシステムと、市民の声に耳を傾け、迅速に行動に移すヨーロッパの政治との違いに驚いたことはありませんでした。(注:しかし、昨今のコロナワクチン強制接種の動きや、COP26における原発推進の動きを見ると、欧州の政治も大変だなあと感じています!!!2021年秋 竹野内真理)
緑の党のエネルギー担当者Grattan Healy氏は私に言いました。「さあ、今度は君がすべての政党に資料を持参して説得しに行きなさい。緑の党の政治家が与党の政治家に働きかけても聞いてはくれないから、君がすべての政治家を廻るんです。」そういうことで、私は知らない間に生まれて初めてのロビー活動をしていました。
このとき与党のキリスト教民主主義党のエネルギー担当者は私の持参した資料の内容について、「原発と2000年問題でこんな危険性があったなんて知らなかった」 と驚きました。私にとっては、保守党のエネルギー担当者のこの言葉も、非常に印象的でした。保守的な政治家や官僚は、どんなに大きな問題であっても、単に正しい情報が届いていないだけでまひがった政策を行っていることがままあるということです。もちろん共犯者や確信犯はいるし、そういう場面も私は直に見てきていますが、少なくとも知らない人も大勢いるはずです。
このことを考えると、私はやはり政治的な諸問題はあきらめるべきではないと思っています。上に立つ政治家や官僚が勉強不足で世の中が大変な方向に進んでおり、正確な情報を提供することで彼らが気づく可能性はありゆるからです。 この時の決議案は、「コンピュータ2000年問題で原発に不具合が生じ何らかの大事故が起きたら大変なので年末年始には原発をすべて休止せよ」というもので、そして驚くことにこの決議案は二か月後に、与野党満場一致で可決されました。
しかし、考えてみれば「日本では、このような問題よりも何よりも、大地震で事故が起きたら大変だ」とこの時から思うようになりました。地震は交渉の余地がありません。戦争勃発を防ぐより大変な話です。今も私はこの問題を考えると、暗澹たる気持になります。日本にいたくないと思うこともあるくらいです。
ところで忘れられない出来事なのですが、市民活動家の計らいで、中部電力の株主総会に出席したことがあります。市民の人たちと共に、地震と原発の危険性について、細かなデータも出しながらかなり具体的に質問しましたが、経営側ばかりか株主たちも挙手の段階になると、まったく反応してくれませんでした。
中部電力は、150年ほど前に起きた3.11前が起きる前の当時は過去最大の日本の地震であったマグニチュード8.4の安政の大地震のデータをもとに計算しているから絶対安全です、というのですが、いつ起きてもおかしくないと言われる東海地震は直下20キロで起きる地震です。ところが、この安政の地震の計算は、地震の起きる場所を遠くに設定しています。耐えられる最大加速度は600ガルですが、阪神依頼、岩盤上でもそれ以上の数値は出ているし、それに地震がなくても事故を起こし、ひび割れが生じている原発が、人知を超えた自然災害に、どうして絶対に耐えられる、と言えるのでしょう。
経営陣の回答を聞き、そして何より、無数の株主の一様に無感動の様子を見て、私は 「もう間に合わないんだろうなあ」と涙が出てきてしまいました。
そうなのです。今(2021年秋)現在も思うことなのですが、現代の人間というものは、その性質が落ちぶれに落ちてしまい、将来世代の命なんて、これっぱかしも気遣わない存在になってしまったのです。
子供は悪くないが、大人が絶対的に悪い。大人の中でも社会の底辺にいる人々に罪はないが、~長がついたり、社会階層の上部に位置する人々と彼らに絶対追従をしている人々が社会を破壊している!
人類というのものは、「金」という宗教にも似たまがい物を何よりも大事にし、基準とし、金が潤沢な余裕のある生活を何よりも尊重し、「金のあるなし」で物事を判断する悲しい存在に成り下がっているのです。
この狂気の世界では、子どもの権利なんて考えないし、未来世代の事など考えない。生まれてくる子どものことなど考えない、未来世代の行く末など全く考えない、身勝手な大人の支配する社会になってしまった。
あげくには昨今では、mRNAワクチン接種などと言う、自らと子ども達の自然免疫や遺伝子を変異させうる怪しげなものを打つことを勧め、自らと将来に壊滅的な打撃を与えようとしている。ついでながら科学技術の世界も地に落ちている。人間というのは、なんという愚かな存在なのでしょうか。
現在進行形で地球を破壊している原発を進め、その他地球環境を破壊する科学技術に巨額を費やし、挙句にあやしげな遺伝子改変ワクチンを自国民に打つのを推奨し、打ち続ける人類は、「地球上のガン」ともいえる存在で、一度、絶滅してもいいものなのかもしれない。そんなことをぼんやり考える今日この頃です。
そういえば、私が初めて通訳になった25年ほど前、「私は今後の地球環境が心配だから、彼氏はいるが、私は子どもは絶対に産まない」という通訳仲間がいました。彼女は賢かったと思います。
さて、話を元に戻します。地震と原発の問題については、ほかにもとても印象的な出来事がありました。2000年に茨城県の筑波で開催された全国から数百人の学者が集った地震学会に出席した時の事です。そこには日本全国から数百人の地震学者が来ていました。この時、質疑応答の時間があったので、私は会場から勇気を出して次の質問をダイレクトに投げかけてみました。
「今の平均の大きさの6分の1の原発が大事故を起こした時、避難する人の数は1760万人、国家予算の2倍以上の損害額が出て、国土の40%が農業ができなくなるほど汚染されるという試算がここにありますが、地震学会としてはこの国民の命に直接かかわる問題にどういう見解を持っているのか、またこの問題に関して何か行動を起こす予定はあるのですか」と。
すると最初に私の質問に答えた学者はなんと、「原発は地震が来ても絶対に事故が起きない設計になっています。」と答えました。それまで眠たげだった学会が、一気に盛り上がり、侃々諤々の大論争の議場になりました。最後には当時の地震学会長であった入倉孝次郎氏がその場で意見を求められるまでになりました。
「この問題は見直しが必要である」というのが、入倉氏の最終的な見解でした。しかしその後何の進展もありませんでした。本当は地震学会として、この議論を発展させ、実質的に行動につなげてほしかった。すべての地震学者が地震と原発の問題に取り組んで欲しい、切に願って、大会場から、何百ページもある分厚い原発事故の際の試算の文書を振り上げ、勇気を振り絞って発言したのですが、結果、何にもなりませんでした。
ちなみに、入倉孝次郎博士と原発立地容認の活断層の権威、松田時彦博士はその後二人で日本政府から授賞されています。少し逸れますが、東京大空襲を指揮したカーティス・ルメイも日本政府から授賞されています。日本というのはそういう情けない国なのです。国民の命を守ろうという意識もないし、国民の多くが立ち上がるということもない。地震学会での出来事は、私が30代前半でしたから、もうかれこれ20年以上前のことになります。
もうひとつ私が勇気を振り絞って行動したことがあります。2002年、私が単独でIAEA(国際原子力機関)に行った時の事です。当時、原子力資料情報室の国際担当として働いていた私は、「9月11日以降の原子力政策」という国際会議に通訳として参加していました。
休憩時間にすかさず、プレゼンを終えたばかりのIAEA副事務局長のDavid Waller氏に、「素晴らしいプレゼンでした!ところで日本の原発事情でお話したいことがあります!」話しかけ、地震と原発、特に浜岡原発と東海地震の事について、元スイス大使の村田光平氏と共に直接訴えました。
すると意外なことにWaller氏は、「私は7年ほど前に日本に行ったことがあります。その時、大きな地震がありました。あなたがこの問題を恐れることは、よく理解できます。IAEAに来ることがあれば、アポを取って差し上げます。」というではありませんか!
実際その後ひとり列車に乗って国境を越え、オーストリアのIAEAに行くと、5人ほどの人たちに会うことができました。原子力安全部の人には3人会いました。安全部長元通産省の谷口さんという方で、私の言い分に対し、安全だとも安全でないともコメントはなく、面白いことにこう言いました。
「あなたはこういうことをやっていて、生活は大丈夫なのですか?」と。反原発をやっていたら、生活が危うくになるということは、推進側がよくわかっていることです。私も一度、原発関連の通訳の登録をしようと丸紅系のアバンティスタッフというところに行ったところ、当初は「原発の通訳をする人は足りなくて非常に困っていたのです!よく来てくれました!」大歓迎されたのに、その直後私の履歴をコンピュータで閲覧され、登録を断られたことがあります。
さてさらにIAEAで面白かったことがありました。かつて私が企業通訳をしていた時の同僚で、元IAEAのインターンをしていた知人の上司につてで会った時の事です。この方は原子力業界で20年以上働いて来たという方で、核物質保障部門の人でした。知り合いの知り合いということで、バーカウンターでビールを飲みながら、その方の残業が済むのを待ちました。その甲斐あってか、その方は、大変ざっくばらんに以下のような話をしてくれたのです。
「竹野内さん、この問題はね、問題が大きすぎて誰も手が付けられないんだ。仮に日本で大事故があって500万人死んでもあきらめるしかない。」私は心底ショックを受けました。「え、それはひどいですよ」となるべく冷静を保ちながら、「しかし日本がそんなことになったら、産業側が一番大事にしている世界経済が破滅してしまうのではないですか」と聞いてみました。
IAEAの彼は答えました。「そんなことはないでしょう。日本は輸出大国だから、ライバルがいなくなってかえって経済に活気がつく」
私はすかさず聞きました「それはひどい!ところであなたのご家族は日本にいないのですか?」
IAEAの彼「いや、僕の家族は皆ウィーンにいます。日本の人たちはよく怖がらずに生活できているなと思っていますよ。」
私「でもまだ事故は起きていないんです。(注:この会話は2002年当時です)間に合わないかもしれないけれど、やるだけのことはやりたいんです!そうでなければ、事実を知っている者として、未来の子ども達に申し訳が立たないではないですか!」
私は正直に話してくれたIAEAの彼に感謝しています。しかし、原子力の推進側にこのように言われ、「ああ、やっぱりそうなのだ。私が単に心配し過ぎているのではないのだ」ということを確認させられた感じで呆然としてしまいました。この方には繰り返し、どうか協力してIAEAの内部で広げてほしいと頼みましたが、彼はすまなそうな顔をして、次の日も私を彼のオフィスに一度招いてくれたものの、この件についてはコメントせずに見送ってくれました。
2002年11月、私はなんと松戸市議会に立候補しました。始めは単に、市民公民館で「自転車の駐輪場を増やすのとごみ問題をなんとかすべき」という私の発言を聞いていた市議会議員が、民主党の県議会議員を引き連れ、「あなたは素晴らしくスピーチが上手だ。市民派議員を増やしたいから立候補してみないか」と持ち掛けてきたのでした。
ところが私がとても頑固に、「原発問題が最優先課題です。原発事故ですべてがひっくり返る可能性があります。」と主張していたら、この話は立ち消えになってしまいました。
その後、たまたま青森の再処理工場反対運動をしている人にこの話をしたら、「原発のない消費地の人たちがこのことを考えてくれるのは非常に大事だ。ぜひ、選挙に出てくれ!」と言われました。一般の人に735枚の選挙ポスターを手渡し、松戸市住民の全戸に原発と地震の危険性について訴えるチャンスと考えれば、やる価値も少しはあるかもしれないと思いました。
実は実家の家族の猛反対があり、かなり神経の擦り切れる思いをしながら、何度も「やる」「やめる」を行き来しながら、ぎりぎりになって出馬しました。私を最後まで応援してくれた家族は父一人でした。今でも父の事を思い出すと涙が出るほど。何があっても私を常に愛し、心底支えてくれる人でした。
結果は当選ライン1700票のところを900票でしたが、とりあえず供託金を取られるによかったと思っています。当時の千葉日報の編集員が私の主張を記事にしてくださいました。 とはいっても、世論が動いて原発が実際に止まるまでにならなければ、どうしようもないと思います。
IAEAの人も言っていました。「日本全国の人々がみんな気づくくらいにならなければ、原発は止まりません」と。それで決死の覚悟で立候補したのですが、もう少し広まってくれてもよいのになあと、正直がっかりしました。
この9年後の2011年3月11日、福島原発事故は起こりました。私が初めて原発問題に危機感を持った電源喪失から水素爆発に至るシナリオ通り、いやさらに上をいく規模の事故でした。
そして、福島県で甲状腺がんの子ども達が急増し、心筋梗塞その他の死亡も急増する中で、世論は動いていません。政治とメディアによる徹底的なコントロールでこの国の未来を左右する問題が無視されています。
追い打ちをかけるかのように、怪しげなコロナの蔓延と危険なコロナワクチンの接種義務。日本も世界もどう考えても、おかしな方向に向かっています。子ども達や将来世代を守るためには、ひとりひとりが行動する時期に来ていると思います。やれることはやりたいー自分も今は若くもなく、力もなく、体調不良を抱えながらではありますが、せめて細々とでも活動を続けたいです。
竹野内真理
2021年11月23日
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